「辞典を引く」ということについて、どのように取り組ませたらいいものかと最近悩みます。
私的には、もう全部タブレットで検索すれば良いのではないか、とも思っているのですがどうなのでしょうか。
国語の時間に、あいうえお順に並んでいることなど、国語辞典の使い方については学習するのですが、では実際、大人になり社会に出て辞典は引くでしょうか。
私自身はスマホで検索しています。
子どもたちが社会に出るときにスマホで検索するかはわかりませんが、おそらく国語辞典を引く、という選択肢はほぼゼロでしょう。
それを学ぶ必要があるのかな、と思ってしまうのです。
今は「辞典を引く」ことを取り上げましたが、これだけではなく、学習の仕方、何を学ぶか、ということについて、今まで長年やってきたことに疑問を持つことが本当に多くなりました。
例えば筆算。大きい桁のかけ算わり算などは繰り返し計算練習をします。
また、小数点をどこに打つかでテストの点数が大きく違ったりすることもありますよね。
でも…使うでしょうか。筆算。
計算における概念はとても大切だと思います。10をかけると積は10倍になるとか、0.1で割るということは商が10倍になるとか、そういった部分は学ぶ必要があると思いますが、果たして、ただ計算をすることはそれほど重要なのかなと思ってしまうのです。
それよりは、「このぐらいになるだろう」という概算ができる方がよっぽど世の中に出て役立つと考えてしまうのは私だけでしょうか。
実はこのようなことは昔から思っていたことなのですが(採用された20年以上前から、電卓で計算すれば早いのにと思っていました)、教える側が思考停止して、こうするもんだと思っていた部分が大きかったと思います。
不登校の児童は年々増えていますが、私の学校でも、学年で成績トップの不登校の児童がいます。
簡単に言うと、テストで点数を取ることなら、家でもできるのです。
学校に出てきて勉強することって、いったいなんなのだろう、と考えさせられる一例でもあります。
その意味では、
・問題発見能力を磨く
・他社と協働的に問題解決を図る
・自分の考えを他者に理解できるように表現する
辺りの力を磨くような学びを作っていかないといけないのだろうと私は思っています。
子どもたちには、
「せっかく学校に来ているのだから、学校でしかできない勉強をしよう」
と言っています。
教員自身も、そういう学びを作っていくような授業作りが必要なのだろうと思います。
今の当たり前に疑問を持って、常に考え続ける教師像でありたいなと思うのです。