ここ数年、学校は何のためにあるのか、公教育とは何のためにあるのかについて考える機会が増えました。
これまで私はこのブログでも、学校は今後生きていく上で人間関係を構築していくための訓練の場所である、などといった言い方をしてきましたが、確かにそれもそうではあるのですが、学校の本来の目的である学習指導要領の内容とは違います。
リモートでの学習が定着するようになり、家に居ながらでも授業を受けることができるようになりました。
学校本来の学習するという面において考えたときに、学校に登校する意味はどこにあるのでしょうか。
そんな方向性からいつも考えているのですが、最近、私の中で一つの考えが出てきています。
とあるネット番組を見ていたときに、
「リモートの授業なんて、2画面にして片方の画面でゲームやってるやついっぱいいるよ」
「モチベーションの高い子しかリモート授業では集中力を維持できない」
という内容を目にしました。
予想されていたことではありますが、やはりそうだよなあと思ったのです。
授業という観点においては、Youtubeで日本で一番教えるのが上手い先生に動画で流して貰えばリモート授業で十分かなと思っていたのですが、そもそもその机に立てない子、そんな気持ちがない子は一定数いるわけです。
学校は、そういう子たちのための場所かもしれない、と思うようになっているのです。
何だか逆のような感じもしますが、要は、違う誘惑に負けてしまう子、学力が低くて自分でできない子のために、学校という場所がある、という感じですかね。
学校は、公立学校は下支えする存在になればいいんだなと思ったのです。
勉強の苦手な子に、学ぶ楽しさや学ぶ意味を教える場である必要があるのではないかと思います。
できる子はぶっちゃけ学校になんて来る必要はないかもしれませんが、様々な人がいることや人間関係づくりのために来ても良いでしょう。
ですから、いつ来ていつ帰っても良いのではないでしょうか。
自分のペースで学んだほうがいい子は自宅でどんどん学んでいく。
挫折しかけて悩んだり、挫折してしまった子は学校で学び直す、こんな感じでもいいかもしれません。
学校は「行かなければならない場所」から「いつ来てもいい場所」に変わっていく必要があるのではないかと思っています。
そのためには、学校はすべての人にとって、ある程度心地よい空間である必要があります。
ですから、秩序が乱れかかったときには、相談先を紹介したり、「お家で勉強してください」と保護者にお願いすれば良いのです。
学校はそれぐらいの気持ちでいて良いと思います。
学校に行ってもらわなければ困る保護者は、自分の都合よりも学校の立場を理解するようになり、モンスターペアレントに悩まされることも減っていくのではないかと思います。
今は正直教員たちも、休みが多い子に対して困っている面があります。
「行事で役割があるのに、来ないと困る」
「この子は勉強遅れているのに休まれると大変だ」
こういうことを考えなくても良い学校づくりをしていくのです。
休むと困るような行事はやらなければいいのです。
練習を重ねなくても、できる行事をやっていく。
こんな考え方が必要なのかなと思います。
「行かなければならない場所」ではなく、
「いつ行ってもいい場所」へ。
少し飛躍した考え方すぎますかね…