小学校教員kosukedadの日記

思ったことをわりとはっきり書いていきます。毒舌かもです。

ブレンディット・ラーニングとは

「ブレンディット・ラーニング」というのを知っていますか。

 

簡単にいうと、「集団一斉授業」に「オンライン個別学習」を融合(ブレンド)するというもので、これが大きな成果を上げつつあるとアメリカでトレンドになっているということです。

 

『ブレンディッド・ラーニングの衝撃』(教育開発研究所、小松健司・訳)の共著者であるマイケル・B・ホーン氏は、「アメリカでは、非常に多くの生徒が、公立校に代わる『ブレンディッド教育』系の学校を選ぶようになっている」と語っています。

 

さらに、アメリカではコロナ禍以降、少数主義の「マイクロスクール」(通常、15人以下のクラスから成る)の人気が高まり、急成長中なのだそうです。今や全米で最大200万人強の子供たちが、公立の学校制度に属さないマイクロスクールにフルタイムで通っているということです。

 

 

コロナ禍もあって、学校においてもオンライン学習やリモート学習が急速に進みました。対話型の学習が可能となり、理解を深められるようによりカスタマイズできるようになりました。

 

こうした進化は新たな考えを生みました。

集団での一斉授業は、果たして意味があるのか、ということです。

 

先ほどの『ブレンディッド・ラーニングの衝撃』の共著者であるホーン氏のご子息の通う学校では、教室に入るとどちらが「前」か見分けがつかないような教室で、子どもたちが教室のあちこちに散らばって学んでいるのだそうです。

仲間と一緒に作業をしたり勉強したり、独学したりといった具合です。教師が小グループの子どもたちの輪に入り、一緒に学ぶこともあるのだそうです。

 

欧米で盛んに行われている、いわゆる生徒主導型のモンテッソーリ教育を行う学校だそうですが、教師が教壇に立って児童全員が黒板を見つめているという従来の授業とは違い、最も生徒主導型の教育と言えるのは間違いないでしょう。

子供たちは作業や勉強に没頭し、時には教室内を移動しながら学びます。こうした教育は、テクノロジーやオンライン学習によって、さらに進むと考えられます。

 

従来の授業は、学習ペースが速い子供にとっては退屈でしかない。そうした子供たちは、もっと深掘りした内容を学ぶほうがいい。という考え方ですね。

 

 

ただ、このような学習は意欲の高い子には大変有効ですが、そうでない子にはどうなのか、という疑問も残ります。

自発的に学ぶタイプの子供たちがいる一方で、多くの子供たちはそうではありません。

だからこそ、仲間や先生に(対話を通して)導かれながら学ぶことが理解に役立つのではないかと思うわけです。

 

 

これについても、「ブレンディット・ラーニング」の考え方では、学習内容をカスタマイズできるオンライン学習が、有効だという考えのようです。

「授業がわからないのは、その前段階を理解していないからであって、先生が万策を尽くしても、生徒間の習熟度の差を埋めるのは至難の業だが、オンライン学習では各生徒が自らカリキュラムを作り、テクノロジーを家庭教師代わりにして学べる」と述べています。

 

ここは微妙ですよね。

「わからないところがわからない子」というのも一定数いるのです。そういう子はその時点ですでに意欲を失っています。

前にも述べましたが、そう言った低位の児童には、全体の雰囲気を整えて、「学習しなければ」という思いにさせつつ、直接手助けすることが必要で、オンラインやリモートでの学習は合わないのではないかと私は考えています。

 

 

では、「ブレンディット・ラーニング」における「集団一斉授業」はどんな場面になるのでしょうか。

 

私が読んだ記事では詳しく述べられてはいませんでしたが、勉強は楽しく社会的なものであるべきであり、従来の授業や課外活動、仲間との交流を子供たちに断念させるようなものであってはならない、というのが基本的な考えのようです。

 

アメリカの生徒や保護者は、従来型の授業も望んでおり、そのためブレンディッド・ラーニングが2000年前後に急速に広まったのだそうです。ブレンディッド・ラーニングでは、友人らとの交流や遊びという楽しみも確保できますからね。

 

コロナ禍でオンライン学習が一気に浸透し、「自分のやり方やペースで、いつでも勉強できる」点がいいという子どもたちの声を聞く一方で、教室で仲間たちと触れ合いたい、友達が恋しいという声にも対応可能な学習、それがブレンディッド・ラーニングということですね。

 

 

さて、日本で行われている義務教育を当てはめてみると、都市部の私立学校などは、このような方式での学習は可能ですし、実際に近い形で行われている学校もあると思います。

 

しかし、多くの公立学校は、『教える人の不足』、つまり子どもの人数に対する教員の数が圧倒的に少なく、どうしても集団で前を向いて行う一斉授業をするしか選択肢がない、と言った状況に置かれているのではないでしょうか。

 

「勉強をしたい子」と「勉強をしたくない子」の間に挟まれ、どちらにも手厚い支援をすることができずにとりあえず一斉授業をする、といった形になってしまっているのではないかと思うのです。

 

学校長の考え次第である程度の工夫はできますが、人が足りないということがある限り、取組には限界があります。

 

学校としてというよりは、今後の公教育のあり方として、県や国レベルでのもっと大きな視点で考えていく必要があるのではないか、と考えさせられました。