小学校教員kosukedadの日記

思ったことをわりとはっきり書いていきます。毒舌かもです。

教員の自腹問題を考える

先日、こんな記事が出ていました。

toyokeizai.net

 

「あー、わかるなあ。」

 

というのが私の感想です。

 

 

実は私も若かりし頃は自腹を切りまくっていたことがありました。

 

 

教員は勤務時間の管理も下手ですが、経費の管理も上手ではないと思います。個人事業主なんかは、どれもこれも経費で落とそうとしますが、教員にはそんな考えはほとんどありません。

 

 

学校で掛かる経費は、大きく分けて2種類に分かれるかと思います。

 

子供一人一人に対して購入するものとそうでないものです。

 

一人一人の子供に対して購入できるものは、保護者から教材費などという形で徴収することができます。これはどの学校も春の段階で計画を立て、ほぼ計画通りに購入しているはずです。

 

 

その他の大体の経費は自治体の公費で賄われます。この場合、記事でも触れていますが、指定業者が決まっていることが多く、計画的な購入が必要となります。

 

授業で使う材料なんかは、計画的に購入、なんてことはまずできません。直前になって思いついて購入することも多いですから、当然自腹購入が多いです。

 

学校を代表して県外に研修に行ったとしても、私の県の旅費の計算上に参加費は含まれていません。通常研修会の参加費は3,000円から4,000円。これを自腹で払って研修しています。

 

行事なんかで教職員がお揃いのTシャツを作って着る場合があります。結構やりたくない人もいるんですが、なかなか断りにくい面はあるんですよね。でも、これも自主的にやっていると判断されますから、当然自腹です。

 

部活動は大きいですね。私も昔、部活動の指導をしていた頃は、自分の服装や道具にかかるものだけでなく、子供たちが使用する道具に関してもできるだけ良いものを使わせたいと思い、自腹で購入していたこともありました。

 

ただ、全部ではないにしろ、どうにかして経費で買うことができるものも多いんですよね。ですがそれを教員はあまり積極的にやろうとはしません。

 

理由は簡単。面倒だからです。

 

その時間を使うなら、自分で費用を出してもいいや、と思うくらい手間がかかるんですよね。

 

 

先ほど挙げた例は、どれもこれも、教員のやる気が出発点になっています。

熱心な人ほど、自腹を切っている教員が多い印象です。

そして、そんな教員を「熱心な人だな」と認めてきた面も、学校現場にはあるのです。

 

これって良くないですよね。

 

とはいえ、最近はしっかり管理する先生も多くなってきたような気がします。

 

かくゆう自分も、今はなるべく自費で購入することはしないように、事務職員と相談しながら必要なものを購入するようにしています。工夫と手間次第なんですよね。

 

教員一人一人にそれを考える余裕が出てくれば良いのでしょうが、今はなかなかそんな時間が取れない、といったところでしょうか。

 

「時間を金で買っているからいいんだ」

という考え方を教員一人一人が見直し、仕事への情熱と収入に矛盾が生じないように、働き方改革と連動して経費についても良い方向に進んでほしいと思います。

前はあったのに、今は無くなった行事って?

節分が終わりましたね。

ということで、こんな時期だから思いついた話題で進めたいと思います。

 

 

学校のリスク管理にはさまざまなものがありますが、今回は昔はあったのに無くなった行事などについて触れていきながら、リスクの管理について考えてみたいと思います。

 

みなさんは小さい頃を思い出してみて(世代はさまざまかと思いますが)、保育園や学校でどんな行事があったでしょうか?

 

私は小学校の教員なので、小学校を例に取ってみると、自分が子供だった頃、また教員として仕事に就いた当初はあったのに、今は無くなってしまった行事がたくさんあります。

 

こんなことを書くと、そりゃあ学校が忙しすぎると言われている昨今だから、行事の精選は当たり前でしょう、なんてことを言われそうですが、理由はそれだけではないのです。

 

 

では、どんな行事か具体的に挙げてみますね。無くなった理由をちょっと考えてみてください。

 

 

豆まき集会。

餅つき大会。

そば打ち体験学習。

 

 

理由がわかりますか?

 

勘の良い方ならすぐわかるでしょう。そう、食物アレルギーが理由なのです。

 

ちょっと加えると、昔は学級のお友達が旅行に行った時などにお土産を買ってきて、クラスのみんなに配る、なんてこともありませんでしたか?

 

そんなことも今は許可している学校は少ないのではないかと思います。(ごくごく小規模の学校は別かもしれません)

 

そば、小麦、ナッツ類など、命に関わるアレルギーを持っている子もいたりするので、先ほどあげたような行事は、私の地域では今はほとんど見かけなくなりました。

 

昔は保護者がたくさん集まって、わいわいやったものなのですがね。

 

 

学校給食も、アレルギーに対応するために代替食を用意したり、そもそも献立の作り方をリスクの少ないものに工夫したりと、なかなか苦心しているようです。

 

学年の行事などで、おやつを配るイベント的なものを行うとなれば、事前にどんなお菓子を購入するか業者と相談し、お菓子のリストまたは実物を持ってきてもらい、それを保護者に確認してもらい…など準備が大変なのです。

 

ですから、そんな行事やイベントは徐々に淘汰され、現在に至る状況になっています。難しい時代になりました。

 

おそらく幼稚園や保育園は、もっと苦労していることでしょう。自分も息子から、豆まきは豆の代わりにボールを投げていると聞いたことがあります。

 

アレルギーを持つお子さんと保護者のことを考えると、そのアレルギーを無視して実施するのは配慮に欠けると言えるでしょう。

 

ただ、これで地域の方との繋がりが切れてしまう例も少なからず見てきた私は、何だか寂しい気持ちになります。

 

これも時代なのでしょうね。

 

 

リスクという面では、このような食物アレルギーに関することもそうですが、ドッジボールをやるとかやらないとかで、少しニュースになったこともありました。

news.yahoo.co.jp

 

現場にいるとわかりますが、ドッジボールに使用するボールは昔は硬めのものを使っていましたが、今はやる回数が減ったことはもちろん、使用するボールも柔らかいものを使うようになりました。

 

また、休み時間にボールの使用を認めない学校も増えましたね。

 

いろいろなリスクを避けていることには違いありません。

 

このように、リスクを避けることにより、窮屈な学校生活になっていくのは今のところは仕方のないことなのかもしれません。

 

ですが、そこから新しいアイデアや発見が生まれることも確かだと思うのです。

 

「何とかしたい。」

 

そんな思いが身を結び、形になっていくイメージをを抱きながら、我々教員は日々模索しているのです。

さりげなく動ける先生方は素晴らしい

学校現場がブラックな要因の一つには、現場の教員が勤務の時間管理や仕事内容の効率化ができていないこともありますよ、なんて以前のブログで書いている私ですが、そんな現場の教員のことについて今回は述べていきたいと思います。

 

 

学校の教員の業務は多岐に渡ります。

 

 

日常の授業や学級に関することもあれば、研修部や生徒指導部などの学校運営上の校務分掌と呼ばれる業務、そして運動会や学習発表会などの行事とさまざまです。

 

そして、さらに言うと実はそれだけでなく、その地域の学校間の教員たちで研究を進めるコミュニティや、地域のPTAと共同で行う事業、そして小学校と中学校との連携事業など、自分の学校に関する業務以外にもたくさんあるのです。

 

経験を重ねた教員や、将来を嘱望されるような若手の教員には、今言ったような仕事も回ってくるのです。

 

 

現在の私にもそんな仕事があり、地域の教員が任意で参加する、各教科の研究部会のようなものを取り仕切っています。

 

自分の学校に関する業務と、それ以外の業務、両方を抱えながら仕事をしているのです。

 

そうすると当然忙しくなります。

なぜ忙しくなるのかというと、校内に関する業務であれば、計画段階で同じ学校の先生方に仕事を割り振ることができるのですが、外部の仕事はそうはいかないからです。

 

自分の学校の業務をしっかりとこなしつつ、時間を見つけてそれ以外の仕事をするしかありませんし、自分一人でやるしかないのです。

 

 

ある日のことです。

 

地域の研究部会に関する資料作りに追われる私は、大量の資料を丁合(印刷したものを冊子にして綴じる)するために職員室の後方にある空き机を利用して、印刷物を並べていました。

 

大量の印刷したプリントを並べて、さあやるか、と思って丁合し始めると、それまで職員室の自分の机で作業していた同僚の先生方が立ち上がり、徐に私の丁合を手伝い始めるのです。

 

 

「いろんな仕事抱えて大変ですよね、先輩」

「こういうのは人の力が大きいわよね」

「みんなでやったほうが早いでしょ」

 

なんて言いながら。

 

いつの間にか職員室の先生方全員が丁合を手伝うようになっていました。私の上司も含めてです。

 

丁合というのは人数が多いとあっという間に終わります。終わると先生方は何もなかったかのようにまた自分の机に戻り、さっきまでの仕事をするのです。

 

 

実は学校現場はこのような場面に溢れています。

 

やらなくても困らないけれど、やった方が良い仕事。誰かがやった方が良いけれど、誰がやるかは決まっていない仕事。

 

そんな仕事の多くに、先生方は気付き、進んで取り組んでいるのです。

 

そもそも学校って、人、それも子供たちを相手にしていますから、予定通りにはなかなか進まないんですよね。不測の事態が起きて余分に時間がかかってしまったとしても、相手のためにという自己犠牲の精神がないと、なかなかできない仕事だと思います。

 

教員も給料をもらっていますから、当然お金のために働いているのですが、売り上げを上げるために働いているのではなく、人を育てるために働いていますからね。

 

そうやって育てた人材が、将来の社会の経済を支える、なんて言ったら話が大きすぎますかね。

 

 

学校の働き方改革が進んで、業務の管理がしっかりなされることは大いに結構なことですが、こんな先生方の良さがもし失われるとしたら寂しいなと思います。

 

いつも働き方を効率化しろと述べている私が、こんなことを言うと矛盾しているような気がしますが、やはり先生方は素晴らしいということを言いたくてこんな内容になりました。

ではまた。

校内研修の新しい姿

学校には校内研修というものがあります。

 

より良い授業について、研究のテーマを学校で決め、そのテーマに沿って1年間研究していくというものです。

 

主な活動としては、年に何度かの研究授業を行い、教員全員で協議をするなどの活動をします。

 

学校現場に居る人以外は余り目にすることのないものですが、現場の中ではかなり大きなウエイトを占める業務です。

 

学校の基本は日々の授業、ですからね。

 

研究授業の際は指導案というものを作成するのですが、これがまたなかなかの時間と労力を要します。1時間の授業のために、莫大な時間と労力をかけて準備するのです。

 

基本的には、研究をもとにして、その成果を日常の授業に役立てていこうという趣旨ですが、しっかりそのようになされている学校もあれば、研究授業の時と日常の授業がかけ離れていて、なかなか生かされていかない、という学校もあるのではないでしょうか。

 

この校内研修は、学校全体である一つの教科に絞り、その教科を学校全体で研究していこうというものもあれば、あるテーマに沿って各教科で研究しようというものまでさまざまあります。

 

どの教科を研究するのであっても、例えば、算数の授業について協議をする場であれば、「算数というのはこうあるべきだ」「この単元のねらいはこうだから、このように発問すべきだ」といったその教科の授業をどう捉えるかや、子供に知識や技能をつけさせるための指導の仕方についてなどを協議することになります。

 

そうして1年間研究した成果や課題を、研究のまとめとして研修主任を中心に整理し、研究紀要として冊子にしている、という学校が多いかと思います。

 

 

さて、このような校内研修の姿も、私は今後は変わっていくのだろうな、と思っています。

 

先日「新たな教師の学びの姿とは」でも述べたように、教員一人一人の主体的な研究へとシフトしていくのかな、ということです。

 

kosukedad.hatenablog.com

 

 

現職の教員であればイメージしやすいと思うのですが、大学の附属小学校などの先生は個人研究をしていますよね。あんな感じを考えれば良いのかなと思います。

 

例えば、筑波大学附属小学校の公開発表会には、全国から多くの教員が集まりますが、筑波大附属小の先生方もそうですよね。

 

 

一人一人がやりたい課題を見つけ、その課題に向かって研究していくということを、公立の普通の小学校や中学校でも行われるようになっていくのではないかと思うのです。

 

このような研究になったときに、教員一人一人の差がはっきりすることも出てくるでしょう。

 

先ほど挙げた筑波大学附属小学校の先生方の授業は、参観者の中には批判的な考えを持つ人もいると思いますが、それは覚悟の上、自分の考えにしっかりとした信念を持って提案しますからね。

 

 

では、チームとしての「学校」や「教師集団」の役割は、研修の分野では無くなるのかというと、決してそうではないと思っています。

 

「主体的な研究」と「独りよがりの研究」とは違うからです。集団が高め合っていかないと、それこそ磨き合う場が無くなり、誰も自分の研究に意見を言わない、ただ単に「独りよがりの研究」になってしまうと思うからです。

 

その結果、研究の方向が合っているかどうかわからず、迷走してしまうことになってしまうのではないでしょうか。

 

ですから、お互いに言いたいことを言う場は必要なのです。

 

ただ一つ言えることは、教員も誰かが敷いたレールの乗って研修するのではなく、自らがレールを敷くという意識をもたなければならないということです。

 

これからは、教員自身も主体性が問われることになっていくに違いありません。

ちょっとした授業づくりの工夫を

授業づくりについて久しぶりにお話したいと思います。

 

最近はちょっと大きな話や先を見据えた話ばかりしてきたので、今回は現実的な日常の話をしますね。

 

 

毎日の授業をいつもいつも特別なものにはできません。何が言いたのかというと、1日に行われる6時間の授業を、毎日前日に完璧な準備をして教材研究をバッチリして臨む、というのは不可能なことです(やっている人もいるかもしれませんよ。ワーカホリックだと思いますが)。

 

 

そこで、私達教員が日々活用しているのが、教科書と指導書です。

 

教員はこれを使って、日々の授業を行います。

教科書は子供が持っているものと同じものですが、指導書はその教科書の内容を指導するための、具体的な指導の流れなどが掲載されたものになります。

 

大体この指導書を使えば授業は成り立つのですが、使い方や見方の感覚を磨けば、より興味深い授業づくりができると思うのです。

 

 

そのポイントを例として3つ挙げます。

 

①必要感のある課題へ変えてみる

②中心資料を決めてみる

③あえて教科書を使わない日を作る

 

 

では少し具体的に述べていきます。

 

①必要感のある課題へ変えてみる

 

教科書の課題が児童の必要感を生むかどうかを考えてみるのです。

 

例えば、「Aは500円で5個、Bは350円で3個のチョコレートがあります。どちらがお得でしょう」などという問題があったとします。

 

これを、「Aは500円だけど5個入っている、Bは350円で3個入っている、Cは2個で600円。どれが欲しい?」と聞いてみるのです。

 

こうするだけで答えが一つではなくなります。

 

単純に一つあたりの値段が安いAという答えもあれば、自分は5個も食べられない、3個でいいからBという答えだってあるわけです。僕は3人兄弟だから5個だと喧嘩になっちゃう、でも立派な理由です。Cはなんで高いのだろう、すごく美味しいのかな、となんて言う子もいるかもしれません。

 

1時間の学習のねらいを考えるとずれてくるところはありますから、毎時間このような形はできませんが、こういう授業を取り入れるだけで参加意識が生まれます。

 

最近求められている学力は、条件をしっかり判断できるかということが重要です。必要の無い情報を取り除き、必要なものだけを選ぶ力を学力として求めています。そう言った力も育ちます。

 

 

②中心資料を決めてみる

 

教科書にはさまざまな資料が載っています。パッと開くと全てに目が行くことになります。これをあえてせずに、中心となる資料のみを見せるという方法です。余計なものを見せないということですね。

 

とにかく一つの資料に集中させて、疑問や気づきを出させるのです。社会や理科で使えます。本当に一枚の写真だけで1時間の授業が成立するのです。子供達が資料を見る目を磨くことにも繋がります。

 

方法はいろいろあります。児童のタブレットに画像や写真を送るなどできればベストでしょうが、スマホで写真を撮り、それを教室のテレビに大写しするだけでも良いでしょう。

 

ポイントは中心となる資料を教える側がしっかりと見極めないといけないと言う点です。

 

 

③あえて教科書を使わない日を作る

 

別に教材を開発してオリジナルの授業をしようと言っているのではありません。単純に教科書を開かずに授業を進めるのです。

 

子どもたちはどこかで先生の話を聞いていなくても、後で教科書を見れば解き方がわかるだろうなどと思っています。そういった思いを裏切って見せるのです(笑)。

 

最初から机に教科書を出させないで授業を進めます。最後まで。ごくたまにでいいんです。これをするだけで、気を抜いちゃいけないんだと子どもたちは思うはずです。

 

 

 

日々の授業を手間をかけずにちょっと工夫すること、これができれば私たちの業務の負担も減りますし、子どもたちも育ちます。

 

若い先生達には、この辺りのひと工夫をうまくやればいいんだよ、といつも言っているのです。

「新たな教師の学びの姿」とは

普段はあまり上(国とか)からの文書などはちゃんと見ない私なのですが、先日見た中央教育審議会の文書の内容に興味深いものがありましたので、今回はそれについて述べたいと思います。

 

 

中央教育審議会の『令和の日本型学校教育』を担う教師の在り方特別部会が、「『令和の日本型学校教育』を担う教師の養成・採用・研修等の在り方(中間まとめ)」を発表し、理想的な教師及び教職員集団の姿を実現する方向性を示した、というものです。

 

そこで示された審議のまとめの中で、「新たな教師の学びの姿」として4つ挙げたのですが、これがなかなか面白いのです。

 

その4つというのは、

 

①変化を前向きに受け止め、探究心を持ちつつ自律的に学ぶという「主体的な姿勢」

 

②求められる知識技能が変わっていくことを意識した「継続的な学び」

 

③新たな領域の専門性を身に付けるなど強みを伸ばすための、一人一人の教師の個性に即し「個別最適な学び」

 

④他者との対話や振り返りの機会を確保した「協働的な学び」

 

の4つというわけです。

 

 

ちょっとめんどくさい文言が並んではいますが、私的には「これは結構、なかなか攻めてるな」と感じたのです。

 

 

これまで良くも悪くも、私達教員は「日本の義務教育とはこうあるべきスタンダード」みたいなものに縛られて、日常の授業をしてきたのではないでしょうか。

 

まあ、それがこれまではどんな児童生徒に対しても最低限の学力を保障することに繋がり、ボトムアップに繋がってきたのですが、この「新たな教師の学びの姿」はそれが変わってきていますよ、というメッセージに思えるのです。

 

 

今までのやり方にとらわれることなく、自分なりのやり方を見つけてください、学習のねらいもこれまでとは変わっていきますよ、ということを言っていますからね。

 

そして、子供に主体性を求めておきながら、教師はこれまでのやり方を踏襲する、ということではなく、教員自身も主体的に探求しましょうと言っているのです。

 

 

ここ数年で学校教育の役割に対する認識はかなり変わったように思います。幸か不幸かコロナ禍によって、みんなが同じように学習を進めるということはできなくなってきましたし、そもそも学校に来なくても別に困らないんじゃないか、という考えまで出てきている昨今です。

 

私は、今回の提言は、

 

「学校で学ぶべきことは、1+1=2という足し算の答えの求め方ではないですよ、そんなことはスマホなど持っているツールがやってくれますから。これからは1+1=2の計算を使うのはどんな場面かとか、足し算はなぜ必要かとか、そんなことを考える学習をしましょう。これからは求められるものが変わっていきます、だから対応していきましょう、我々教師も。」

 

と言っているのだと解釈しています(少し飛躍していますがね)。

 

 

さらにいうと、教員一人一人の特性をもっと活かしていきましょう、ということも言っています。オールラウンダーが求められる小学校が今すぐ変わるとは思えませんが、この方向に進んでいくとなれば、少しずつ変化が生まれるかもしれません。

 

 

 

いずれにしても、これまでのような教師像ではなく、新しい姿を必要としていることは間違いありません。

 

学校自体のシステム的なものを含め、化石のような教育現場が、新たな時代へ進みつつあることは、未来を少し明るくしてくれるなあと感じているのです。

なぜ教員を目指す人材は減ってしまったのか

こんなに先生を目指す人が減ってしまったのはなぜなのでしょうか。

 

 

 news.yahoo.co.jp

 

 

先日このようなニュースが出ていました。

東京都が、教員免許が無くても採用試験で合格した場合、教員免許を2年以内に取得すれば正式に採用しますよ、という話です。

 

東京都での小学校の採用試験の倍率は1.4倍だということですが、全国的にも半数以上の県で倍率が1倍台ということらしいです。

 

私の県もその一つとなっています。

 

まあ今回のニュースは、先生をやろうとする人を増やすという点で、一つの方法だろうとは思います。

 

社会経験を積んで教壇に立つということは意味があるとか、これをやっても志願者は増えないでしょ、また教員の質の低下につながらないかなど、賛否があることもわかりますが、何とかしたいという思いは伝わります。

 

今回このことについて自分の考えを述べるつもりはありません。

 

 

それより、このような対策を取らなければならないほど、教員を目指す人が減っているということに対して、私の考えを述べていきたいと思います。

 

 

なぜこんなに教員を目指す人が減ってしまったのでしょうか。

 

 

教育現場がブラックで、それを解消するために働き方改革をして負担の軽減をすれば良いとか、給料を上げれば良いとか、そんな話は当然聞こえてきそうです。

 

しかし、勤務時間が長いことも、給与水準も、採用試験の倍率が高かった昔からそう変わらないのです。

 

しかし、今ほど教員はブラックだとは言われませんでした。なぜブラックだと言われるようになったのか。これは結局、今になって現場の不満が溢れ出た形となっているからでしょう。

 

 

では、なぜ今なのでしょう。何が変わってしまったのでしょうか。

 

 

私は「教員の社会的地位が下がっているから」ではないかと思っています。

 

学校の教員というのは社会的な地位があり、それなりに周りから尊敬される存在だったはずですが、いつの間にかそうではなくなってきたということを感じます。現場の教員もその自覚があるでしょう。

 

先生、好きにやってください。

先生のこと信じてるから。

などと、昔は保護者に言われたものです。

 

それが教員としての自覚となり、モチベーションとなり、やりがいを感じたものです。期待に見合った人間でなくてはならないと、思ったものです。

 

 

学校の先生になれば、何となく自分が立派な人間になった気がすると言うのも、教員を目指す立派な動機づけになると思うんですよね。

 

 

 

今はどうでしょう。

 

教員よりも自分の子供の言うことだけを信じる保護者。

子供同士の喧嘩の理由や怪我の原因は、学校の管理体制にあると決め付ける保護者。

 

こんな保護者がたくさんいます。

 

しかし実情、このような保護者に対しても歩み寄るのは教員や学校サイドです。

これでは疲れてしまいますし、こういった人達のために仕事をすることに対して、モチベーションが上がるでしょうか。

 

 

今の人たちが総じて感じているのは、「人を相手にする職業は割に合わない」ということだと思います。

 

これは学校に限らず、医療や介護の現場もそうだとは思いますが、あらゆる要望に応えなければならず、その割には見合った報酬も、社会的な尊敬も十分に受けていないという部分があるのではないでしょうか。

 

もちろん、人を相手にすることでのやりがいというのはあるでしょう。

 

しかし、それだけに頼っていては、優秀な人材は集まりません。頭のいい人ほど、リスクが少なく稼げる仕事を選ぶのではないかと思うのです。

 

業務を減らして欲しいというのはもちろんです。

 

これまでのブログでも主張しています。

 

kosukedad.hatenablog.com

 

kosukedad.hatenablog.com

 

 

ですがそれ以上に、教員という職業に対する畏敬の念をもう一度取り戻せれば、何か風向きが変わるのではないか、という思いは常に抱いているのです。