小学校教員kosukedadの日記

思ったことをわりとはっきり書いていきます。毒舌かもです。

自己分析の重要性:冷静な判断力を育む学習プロセス

漢字や計算のドリル学習など、作業的な学習の進め方については、最近の学校が抱える事情を考え、昔とはかなり取り組ませ方が変わったなと感じます。

 

自分自身も以前述べましたが、ただ筆算を練習したり、漢字練習をしたりというのは、時代の流れにはそぐわないのではないかという思いがあります。

 

ですが現実として、学級ではドリル学習に取り組ませることもあるでしょうし、朝自習や家庭でで自学自習をする場面というのは必ずあるはずです。

 

以前のようにただ強制的にやらせる、というのは時代錯誤なのはわかっているとはいえ、完全に任せてしまうと、まだ気持ちの面で未熟な子どもたちですから、サボってしまったり、粗末に書いてしまったりすることもあるでしょう。

 

 

そんな場面で私が話すことは、「契約」についてです。

 

私は、締切について子どもたちに確認を取ることにしています。

「何月何日までにここまで終えましょう。いいですか?」

「はい」

返事をもらうのです。

 

返事した時点で「契約」は成立しています。

その納期に間に合わないと思ったら、その時点で

「先生、ちょっときついです。もう少し遅らせてもらえませんか」

と言えばいいのです。

 

ですから能力によって、納期に違いが出ることも仕方ないことだと思います。

 

子どもたちって、そこを考えずに周りの雰囲気に流されて、ただ返事をすることがあるんですよね。自分自身のこととしてしっかり考えてほしいのです。

 

そこを考えずに、締切に間に合わないのはまさに「契約違反」です。

 

契約を守らないのは社会に出たら致命的です。

その後仕事はもらえませんし、社会的な信用も失います。

 

今はその練習をしている段階で、学習したことを期日までに提出することなどは、今後社会に出ていくためのトレーニングの一環なのだよ、と子どもたちにも話しています。

 

私は経験ありませんが、子供によっては、

タブレットスマホでやっちゃえば簡単にできるから、繰り返しの漢字練習や計算練習は意味ないよ」

という子もいるかもしれません。

 

保護者も同じような意見をもっているかもしれません。

 

私にそんな話を言ってきたら、

「よくわかります。確かにそうですよね」

と言いながら、まだ現実的に学校教育の内容としてあること、そして先ほどの「契約を守る練習」の話をして理解してもらうように努めると思います。

 

自分自身を分析して、自分だったらいつまでにできそうだとか、先生は15日に提出しなさいと言っているけど18日まで伸ばしてもらわないと難しそうだとか、冷静に判断できる能力が育てば、それはとても意味のあることだと私は思います。

 

逆に、あなたなら時間を有効にさえ使えれば12日には提出できるはずだ、という自己分析の甘い子への指導もできると思いますしね。

 

「学び」というのは、ただ教科書の学習内容を身につけることではないのです。

表も裏もどちらも本物

3月も迫り、いよいよ学年末を迎える時期になってきました。

 

我々教員も、1年間の児童の様子を振り返り、成長した部分とまだまだ足りない部分などを分析するようになってきます。

 

自分だけだとよくわからなかったり、判断がつかなかったりするので、身近な先輩や管理職の意見も聞くなどして、確認するものです。

 

学級担任というのは、いつも子どもたちと一緒にいますから、確かに良い部分もたくさん見ているのですが、イライラする場面が多くなりがちです。

 

そこで第三者に意見をもらうと、自分のやってきたことが間違いではないことなどに改めて気づくことができるのです。

 

もちろんその逆もありますが…

 

 

さて、3月になると、子どもたちも次の学年を意識して、

「しっかりしなきゃ」

と決意する子が多いことも事実です。

 

ですから、良い行動が目立つようにもなってきます。

 

ただ、児童の成長は嬉しいものですが、その嬉しさは本物だろうか、と疑いたくなる時があります。

 

裏と表を使い分ける児童が比較的多くいるからです。

 

表面上、例えば、教師の見ている前では正しい行動ができても、仲間内や家に帰ってからは全く違う姿になる、なんて子です。

割と多くいますね。

 

SNS上でのトラブルが起こるときはこのケースが多いですね。

 

 

私の考えの結論を言うと、「どちらの姿も本物だ」ということでしょうか。

 

表の「しっかりしなきゃ」「よく見られたい」「正しいことをしたい」も、

裏の「ストレスを解消したい」「少しでも楽したい」「嫌いな子をやっつけたい」も、

どちらもその子が持っている本当の姿だということです。

 

私たち教員がすべきなのは、「どちらの姿もあなた自身である」ということをしっかり伝えてあげることだと思っています。

 

なぜならこのような子は、

「自分は本当は正しいことだけしたいのに、外的な要因があるからそうでないことをしてしまうのだ」

という考えをしがちなのです。

 

相手が悪口を言ってきたから言い返した。

わがままが許せなくて、仲間外れにしてしまった。

誰も見ていないから大丈夫だよ、と言われたからついやってしまった。

 

全て相手が原因であるという言い訳です。

 

私の場合、「正しいことをしたいのだ」という思いをもっていることはしっかり認めつつも、その行動をした「行動の責任」は自分自身にあることを理解させるように努めていますね。

 

どちらの姿もあなたなんだよ。

これから周りの人にどっちに見られたい?

自分自身にはどちらに見られたい?

 

子供といえど、いずれ大きくなって大人になります。

小学校に勤務する私ですが、子供が大人になるまでは本当にあっという間です。

親や先生が見て矯正する、なんてことはすぐにできなくなります。

 

実際SNS上では、保護者の目を離れて、未熟な子どもたち同士でのやりとりが行われています。

 

 

やっぱり結局は自分なのです。

 

子どもたちにも常にそれを伝え、自分自身でしっかりとした判断ができる人になってもらいたい、そんな気持ちで接しています。

AIの進化の中で教員の役割とは

「AIにできないことをやるのが学校の先生の役目だ」

なんてことを実際に口に出して言っていられなくなってきました。

 

昨今のAIの進化は驚くべきものがあります。

 

しかし、多くの仕事がAIに取って代わられると言われる中、学校の教員というのは業務が多岐にわたるため、AIでは難しい仕事であるというデータがある、というのを私は少し誇らしげに言っていました。

 

…が、その考えももうすでに遅れているのかもしれません。

 

山口県で、「絶対に答えを教えないAIが家庭学習を支える」という取組がスタートしたそうです。

 

 

山口県教育委員会は、正解を聞いても絶対に答えを教えない生成AI(人工知能)を中学2、3年生の家庭学習に導入する方針を示した。2024年度から県内の公立中7校で試験的に運用する予定で、関連経費1000万円を一般会計当初予算案に盛り込んだ。

 

県教委によると、AIは、答えを教えない代わりに問題の解き方や考え方を提示する。対話を重ねるうちに生徒自身が解答にたどり着く。具体的には、夏休みの宿題として課される自由研究の調査や作文の添削、英会話の相手に使用することを想定。学習支援アプリと位置づけ、学校側が生徒に貸与しているタブレット端末で利用する。

(読売新聞オンラインより)

 

 

 

ということです。

 

これは参りました。

 

教員でも、なかなか答えにたどり着かない子供に対して、

「こうすれば簡単でしょ」

とむきになって教えてしまうこともあるのではないでしょうか。

 

AIは、教えている子がどんなにできなくてもイライラしませんから、これはなかなか強敵です。

 

粘り強さは無敵ですよね。諦めることがないのですから。

 

ちなみにこのアプリについてもう少し詳しく調べてみると、本当に素晴らしいアプリだなと感じました。

 

自分の息子に使わせたいな、と思ったぐらいですからね。

 

 

AIが学校教育の中で役立っていくのは悪いことではないと思います。

情報格差地域格差の少なくなりますから、環境によって得られる学びの違いというのは減ってくるからと思うからです。

 

ですが…教員の強みというのがどんどん無くなっていくような気がしています。

 

昔は、

「教師はいい授業してナンボ。授業をちゃんとやって、しっかり学力をつけれる教師こそが素晴らしい」

と言われたものです。

 

これは今も間違いではないでしょう。

良い授業をするためにはしっかりとした生徒指導ができていないといけませんし、雰囲気作りも大切です。

 

ただ、「黒板にはこのように書く」とか、「教材をこのように捉えて、発問はこう…」などのように、授業技術を磨くことについては、今は優先順位が高いことではないのかな、という気もします。

 

 

私が今思うのは、「学びを教える技術」よりも、「学びに向かわせる技術」や「学ぶ環境づくり」が求められていると思うからです。

 

子どもたちはツールとしてAIを使うのですが、集中して臨める場所や場面を用意してあげること、これが必要なのかな、と思っています。

 

時代と共に変化する教員の役割ですが、変わらないのは「子どもたちの成長のために何ができるかを常に考え続けること」なのではないでしょうか。

学校教育と現代社会とのギャップ

「辞典を引く」ということについて、どのように取り組ませたらいいものかと最近悩みます。

 

私的には、もう全部タブレットで検索すれば良いのではないか、とも思っているのですがどうなのでしょうか。

 

国語の時間に、あいうえお順に並んでいることなど、国語辞典の使い方については学習するのですが、では実際、大人になり社会に出て辞典は引くでしょうか。

 

私自身はスマホで検索しています。

 

子どもたちが社会に出るときにスマホで検索するかはわかりませんが、おそらく国語辞典を引く、という選択肢はほぼゼロでしょう。

 

それを学ぶ必要があるのかな、と思ってしまうのです。

 

今は「辞典を引く」ことを取り上げましたが、これだけではなく、学習の仕方、何を学ぶか、ということについて、今まで長年やってきたことに疑問を持つことが本当に多くなりました。

 

例えば筆算。大きい桁のかけ算わり算などは繰り返し計算練習をします。

また、小数点をどこに打つかでテストの点数が大きく違ったりすることもありますよね。

 

でも…使うでしょうか。筆算。

 

計算における概念はとても大切だと思います。10をかけると積は10倍になるとか、0.1で割るということは商が10倍になるとか、そういった部分は学ぶ必要があると思いますが、果たして、ただ計算をすることはそれほど重要なのかなと思ってしまうのです。

 

それよりは、「このぐらいになるだろう」という概算ができる方がよっぽど世の中に出て役立つと考えてしまうのは私だけでしょうか。

 

実はこのようなことは昔から思っていたことなのですが(採用された20年以上前から、電卓で計算すれば早いのにと思っていました)、教える側が思考停止して、こうするもんだと思っていた部分が大きかったと思います。

 

 

不登校の児童は年々増えていますが、私の学校でも、学年で成績トップの不登校の児童がいます。

 

簡単に言うと、テストで点数を取ることなら、家でもできるのです。

 

 

学校に出てきて勉強することって、いったいなんなのだろう、と考えさせられる一例でもあります。

 

その意味では、

 

・問題発見能力を磨く

・他社と協働的に問題解決を図る

・自分の考えを他者に理解できるように表現する

 

辺りの力を磨くような学びを作っていかないといけないのだろうと私は思っています。

 

子どもたちには、

「せっかく学校に来ているのだから、学校でしかできない勉強をしよう」

と言っています。

 

教員自身も、そういう学びを作っていくような授業作りが必要なのだろうと思います。

 

今の当たり前に疑問を持って、常に考え続ける教師像でありたいなと思うのです。

叱ることの難しさと必要性

叱るのって難しいですよね。

 

親の子育ての立場からすると、叱るのは今はあまりしない方がよいとされていて、自分の気持ちを伝えるようにしましょう、みたいなことを言われることが多いですよね。

 

ただ、そうも言っていられないのもわかります。

 

周囲の目があるからです。

 

この親は全然叱らず自分の子供を放置している。

周りに迷惑をかけているのも関わらず、なんてことを思われたら嫌ですからね。

 

実際そのように見る人はやはり少なくないようで、ネット上でもそのような意見を述べる人は多いようです。

 

小さい子供が何人もいると、叱らないわけにはいかない。

きょうだい喧嘩の仲裁をしている時間がそもそもない、という家庭もあるでしょう。

 

また勉強熱心な親ほど、叱らない子育てをしたいと思っているはずです。

育児本では、頭ごなしに叱っても、怖いという感情だけが残って意味がないなどと書いていますからね。

親の思いとは裏腹に、自分の子はどこ吹く風でその場で騒いだり汚したりしているのを見ると、気持ちの面でも落ち込んでくるかもしれません。

 

この親の子供が、保育園や学校で、大声で怒鳴って叱るようなタイプの先生が担任になったらどうなるでしょうか。

 

もしかしたら、園や学校にクレームをつける子もしれません。

責められないですよね。

親は親で自分の方針があって努力しているのです。

 

 

このように、今の世の中では「叱ること」についてより厳しい目が向けられている、と言っても過言ではないでしょう。

 

さて、このような状況の中で、学校は今どうでしょうか。

 

特に若い先生方は、「叱る」ことに対して苦手意識を持っている人が多いように感じます。

もしかすると、自分自身もあまり叱られた経験がないのかもしれません。

 

担任が子どもたちとうまく接することができずに、

 

うまく叱ることができずに、学級が乱れてしまう。

叱らないかわりに使うべき指導の方法をうまく使えず、学級が乱れてしまう。

指導すべき場面をうまく見極めることができず、学級が乱れてしまう。

 

そんなことが多く起こっています。

 

「危ないからやめようね」

「そんなことするなんて、先生悲しいよ」

「ここでは声のボリューム1で。静かにしましょう」

 

このようなことを言っても全然聞かない学級もあります。

 

 

適切な叱り方をすることが、やはり必要なのだと私は思います。

 

ではどのようにすればよいのでしょうか。

 

学級担任は「叱ることがある」ということを、子どもたちにも保護者にもしっかりと知らせる必要があるのです。

 

①命を守らなければならないということ

②多くの人たちを動かしていく必要があること

③「正しいこと」を教えていく場であること

 

これらを実行するために、時には叱ることがあるのだ、と言うことを伝えていくのです。

 

この先生はこういう時には叱る、というのが子どもたちや保護者に伝わり、その方針が理解されれば、学級はうまく回っていくはずです。

 

逆に言うと、叱らない場面では、生徒指導の基本である傾聴「しっかりと話を聞く」ことが大切です。

子供の納得感を得るような話の聞き方や指導の仕方ができているかがポイントだとも言えます。

 

よく、厳しいのに人気がある、という先生がいますが、そういった先生はこれがうまくできているはずです。

 

若い先生方もそうなれるように、自分も微力ながら手助けしたいと思っているのです。

学校での失敗経験が社会での成功に繋がる

「宿題をやらない子にはどう言ったらいいですか?」

 

という質問に対して、青山学院大学の駅伝部監督の原晋氏が、「何も言わない。失敗させればいいんです」と言ったというTV番組の紹介記事を見ました。

 

私はこの考えにどちらかと言えば賛成なのですが、コメント欄を見ると結構批判的な意見が多いようですね。

 

失敗しても気付かないとか、困るのは親であって、本人自体は困らないとか、そんな意見が散見します。

 

なかなか響かない子というのは、私も経験上一定数いるのは知っていますから、この意見もよくわかります。

 

また、親の立場からすると、できれば失敗させたくない、今の社会が変わりつつあるのはわかるけど、やっぱり良い学校に行ってもらいたい、安定した仕事について欲しい、といった思いは変わらないのでしょう。

 

 

だからこそ学校は、失敗する場であるべきだ、と思っています。

 

そこに存在価値を見出さなければ、本当に学校は必要のない場所になると思うのです。

 

 

原晋氏はこの記事の中で次のようにも述べています。

 

間違いに対しての指導が3つある。

・シンプルミス

・システムミス

・チャレンジミス

の3種類だ。これらの失敗を見極めて対応を変えることが必要だ。

 

指導の仕方として、

・横着、勉強不足、準備不足で起こり、防ぐことができる「シンプルミス」に対しては厳しく指導

・メカニズムの影響による失敗、目標設定の誤りで起こる「システムミス」に対しては仕組みや外的原因について話し合いを持つ

・「チャレンジミス」については原因を把握し褒める

 

TBS「初耳学」より

 

これらについては、私が日頃から学級経営で意識している指導の仕方と同じだなと感じました。

 

間違いにも種類があって、どんな間違いだったかを子どもたちに考えさせる時間も与えていました。

 

小学生の子供は、「シンプルミス」で指導される場合が多いのですが、「シンプルミス」については個別に指導して、「システムミス」や「チャレンジミス」については、学級全体に返して考えさせる時間を取るように意識していました。

 

「◯○のような失敗はどのようにすれば防げると思う?」

「○さんは失敗したけど、今まで自分ができなかったことに挑戦していてすごいよね」

 

すると子どもたちは自然に、

「こういうミスはしてもいいんだ。次に生かせばいいんだ」

という気持ちになっていきます。

 

失敗することで学ぶことが必ずあるはずです。

 

 

ただ、ここで大切なのは、失敗ができる安心感や自己肯定感がなければ、子どもたちはなかなか進んでチャレンジしてくれないということです。

 

学級経営で絶対におさえなければならない大切な部分です。

 

ミスを笑ったり、小馬鹿にしたりするような子を厳しく指導し、周りにも何が正しい見守り方なのかをしっかりと意識させる必要があります。

 

これがうまくいかずに、やりたい気持ちはあるんだけど、なかなか積極的にならない子が増えていく学級がたくさんありますね。

 

本人の性格や性分ももちろんありますが、周囲の環境を整えることで、積極性やチャレンジ精神を伸ばしていくことはできると私は思っています。

 

学校は社会の縮図だと以前述べたことがあります。社会生活の中でたくさん失敗できる場なのです。

 

ここで失敗したことを、大人になり本当の社会に出た時に生かせれば、学校で学んだ価値というのがあったと言えるのではないでしょうか。

頭の良さを考える:変わる社会と求められる能力

「頭がいい」とはどういうことなのでしょうか。

 

私も含めて多くの親は、我が子に「頭のいい子に育ってほしい」と願います。

 

しかし、「頭の良さ」って一体なんでしょうか。

今回はこのことについて考えてみたいと思います。

 

私は人々が求める「頭の良さ」というのはここ数年で大きく変わったと思います。

 

一昔前だと、処理能力の高さ、つまり計算が速いとか、知識が豊富ですぐに答えが出てくるとか、間違いが少ないとか、つまりテストで高得点を取れるような子が「頭のいい子」だったように思います。

 

大人社会も同様で、「みんなができることを、人よりも速く、正確に、たくさんできる」のが、仕事ができる、頭がいい、という考え方だったように思います。

 

でも、今は違ってきているのではないでしょうか。

 

社会の仕組が大きく変わったことで、求められる頭の良さというのは大きく変わりました。

 

「みんなができること」はAIが人間よりも速く処理してくれます。

 

どんなに間違いが少なくても、速く処理できても、相手は日々進化してくAIです。

はっきり言って分が悪いのです。

 

ですから今は、

「できないことはたくさんあるけれど、これなら人に負けない」

ということが大切になってくるはずです。

 

私たち親は、どうしても周りの子と比較してしまいます。

 

うちの子はあの子よりもテストの成績が良い。

あの子ができるんだからうちの子もできなきゃダメだ。

なんであの子はできるのにうちの子はできないんだろう。

 

そんな気持ちになることがあるでしょう。

 

しかし、あまり気にする必要はないのではないでしょうか。

 

これから求められる力は、そうではないのだろうな、と思うからです。

 

自分をしっかり持って、

 

自分はこうだ。

自分はこれなら負けない。

自分の強みはこれだ。

ということが必要なのです。

 

私も親として焦る瞬間があります。

 

「そんなことしてるの、あなただけだよ。ダメでしょ!」

「あの子はできてるのに、どうしてできないの」

言ってしまうことがあります。

反省です。

 

 

さて、「頭の良さ」に関する概念が変わりつつあることは、私自身、学校現場で教員として子どもたちと接する中でも、ここ数年よく言うようになりました。

 

そして、保護者面談や学級通信などでも、このような内容を話したり書いたりすることが多くなりましたね。

 

そんなに簡単に自分の強みなんて見つからないよ、と言う人も多いでしょう。

 

全くその通りだと思います。

 

そして、学校の評価システムが、まだまだ旧態依然の評価の仕方であり、個人の強みを評価できるほど、体制もできていないし余裕もないことも事実です。

 

だから学校教育はオワコンだと言う人もいますよね。

 

ただ、最近は学校現場の中でも、管理職の中にも、学校教育の未来を憂い、変革をする校長たちも出てきています。

 

誰かと比較するのではなく、過去の自分と比較をする。

経験を生かし、自分なりの判断基準で物事を考える。

 

 

そんな子が増えてくれば、これからの未来も明るいだろうなと思うのです。