小学校教員kosukedadの日記

思ったことをわりとはっきり書いていきます。毒舌かもです。

AIの進化の中で教員の役割とは

「AIにできないことをやるのが学校の先生の役目だ」

なんてことを実際に口に出して言っていられなくなってきました。

 

昨今のAIの進化は驚くべきものがあります。

 

しかし、多くの仕事がAIに取って代わられると言われる中、学校の教員というのは業務が多岐にわたるため、AIでは難しい仕事であるというデータがある、というのを私は少し誇らしげに言っていました。

 

…が、その考えももうすでに遅れているのかもしれません。

 

山口県で、「絶対に答えを教えないAIが家庭学習を支える」という取組がスタートしたそうです。

 

 

山口県教育委員会は、正解を聞いても絶対に答えを教えない生成AI(人工知能)を中学2、3年生の家庭学習に導入する方針を示した。2024年度から県内の公立中7校で試験的に運用する予定で、関連経費1000万円を一般会計当初予算案に盛り込んだ。

 

県教委によると、AIは、答えを教えない代わりに問題の解き方や考え方を提示する。対話を重ねるうちに生徒自身が解答にたどり着く。具体的には、夏休みの宿題として課される自由研究の調査や作文の添削、英会話の相手に使用することを想定。学習支援アプリと位置づけ、学校側が生徒に貸与しているタブレット端末で利用する。

(読売新聞オンラインより)

 

 

 

ということです。

 

これは参りました。

 

教員でも、なかなか答えにたどり着かない子供に対して、

「こうすれば簡単でしょ」

とむきになって教えてしまうこともあるのではないでしょうか。

 

AIは、教えている子がどんなにできなくてもイライラしませんから、これはなかなか強敵です。

 

粘り強さは無敵ですよね。諦めることがないのですから。

 

ちなみにこのアプリについてもう少し詳しく調べてみると、本当に素晴らしいアプリだなと感じました。

 

自分の息子に使わせたいな、と思ったぐらいですからね。

 

 

AIが学校教育の中で役立っていくのは悪いことではないと思います。

情報格差地域格差の少なくなりますから、環境によって得られる学びの違いというのは減ってくるからと思うからです。

 

ですが…教員の強みというのがどんどん無くなっていくような気がしています。

 

昔は、

「教師はいい授業してナンボ。授業をちゃんとやって、しっかり学力をつけれる教師こそが素晴らしい」

と言われたものです。

 

これは今も間違いではないでしょう。

良い授業をするためにはしっかりとした生徒指導ができていないといけませんし、雰囲気作りも大切です。

 

ただ、「黒板にはこのように書く」とか、「教材をこのように捉えて、発問はこう…」などのように、授業技術を磨くことについては、今は優先順位が高いことではないのかな、という気もします。

 

 

私が今思うのは、「学びを教える技術」よりも、「学びに向かわせる技術」や「学ぶ環境づくり」が求められていると思うからです。

 

子どもたちはツールとしてAIを使うのですが、集中して臨める場所や場面を用意してあげること、これが必要なのかな、と思っています。

 

時代と共に変化する教員の役割ですが、変わらないのは「子どもたちの成長のために何ができるかを常に考え続けること」なのではないでしょうか。

学校教育と現代社会とのギャップ

「辞典を引く」ということについて、どのように取り組ませたらいいものかと最近悩みます。

 

私的には、もう全部タブレットで検索すれば良いのではないか、とも思っているのですがどうなのでしょうか。

 

国語の時間に、あいうえお順に並んでいることなど、国語辞典の使い方については学習するのですが、では実際、大人になり社会に出て辞典は引くでしょうか。

 

私自身はスマホで検索しています。

 

子どもたちが社会に出るときにスマホで検索するかはわかりませんが、おそらく国語辞典を引く、という選択肢はほぼゼロでしょう。

 

それを学ぶ必要があるのかな、と思ってしまうのです。

 

今は「辞典を引く」ことを取り上げましたが、これだけではなく、学習の仕方、何を学ぶか、ということについて、今まで長年やってきたことに疑問を持つことが本当に多くなりました。

 

例えば筆算。大きい桁のかけ算わり算などは繰り返し計算練習をします。

また、小数点をどこに打つかでテストの点数が大きく違ったりすることもありますよね。

 

でも…使うでしょうか。筆算。

 

計算における概念はとても大切だと思います。10をかけると積は10倍になるとか、0.1で割るということは商が10倍になるとか、そういった部分は学ぶ必要があると思いますが、果たして、ただ計算をすることはそれほど重要なのかなと思ってしまうのです。

 

それよりは、「このぐらいになるだろう」という概算ができる方がよっぽど世の中に出て役立つと考えてしまうのは私だけでしょうか。

 

実はこのようなことは昔から思っていたことなのですが(採用された20年以上前から、電卓で計算すれば早いのにと思っていました)、教える側が思考停止して、こうするもんだと思っていた部分が大きかったと思います。

 

 

不登校の児童は年々増えていますが、私の学校でも、学年で成績トップの不登校の児童がいます。

 

簡単に言うと、テストで点数を取ることなら、家でもできるのです。

 

 

学校に出てきて勉強することって、いったいなんなのだろう、と考えさせられる一例でもあります。

 

その意味では、

 

・問題発見能力を磨く

・他社と協働的に問題解決を図る

・自分の考えを他者に理解できるように表現する

 

辺りの力を磨くような学びを作っていかないといけないのだろうと私は思っています。

 

子どもたちには、

「せっかく学校に来ているのだから、学校でしかできない勉強をしよう」

と言っています。

 

教員自身も、そういう学びを作っていくような授業作りが必要なのだろうと思います。

 

今の当たり前に疑問を持って、常に考え続ける教師像でありたいなと思うのです。

叱ることの難しさと必要性

叱るのって難しいですよね。

 

親の子育ての立場からすると、叱るのは今はあまりしない方がよいとされていて、自分の気持ちを伝えるようにしましょう、みたいなことを言われることが多いですよね。

 

ただ、そうも言っていられないのもわかります。

 

周囲の目があるからです。

 

この親は全然叱らず自分の子供を放置している。

周りに迷惑をかけているのも関わらず、なんてことを思われたら嫌ですからね。

 

実際そのように見る人はやはり少なくないようで、ネット上でもそのような意見を述べる人は多いようです。

 

小さい子供が何人もいると、叱らないわけにはいかない。

きょうだい喧嘩の仲裁をしている時間がそもそもない、という家庭もあるでしょう。

 

また勉強熱心な親ほど、叱らない子育てをしたいと思っているはずです。

育児本では、頭ごなしに叱っても、怖いという感情だけが残って意味がないなどと書いていますからね。

親の思いとは裏腹に、自分の子はどこ吹く風でその場で騒いだり汚したりしているのを見ると、気持ちの面でも落ち込んでくるかもしれません。

 

この親の子供が、保育園や学校で、大声で怒鳴って叱るようなタイプの先生が担任になったらどうなるでしょうか。

 

もしかしたら、園や学校にクレームをつける子もしれません。

責められないですよね。

親は親で自分の方針があって努力しているのです。

 

 

このように、今の世の中では「叱ること」についてより厳しい目が向けられている、と言っても過言ではないでしょう。

 

さて、このような状況の中で、学校は今どうでしょうか。

 

特に若い先生方は、「叱る」ことに対して苦手意識を持っている人が多いように感じます。

もしかすると、自分自身もあまり叱られた経験がないのかもしれません。

 

担任が子どもたちとうまく接することができずに、

 

うまく叱ることができずに、学級が乱れてしまう。

叱らないかわりに使うべき指導の方法をうまく使えず、学級が乱れてしまう。

指導すべき場面をうまく見極めることができず、学級が乱れてしまう。

 

そんなことが多く起こっています。

 

「危ないからやめようね」

「そんなことするなんて、先生悲しいよ」

「ここでは声のボリューム1で。静かにしましょう」

 

このようなことを言っても全然聞かない学級もあります。

 

 

適切な叱り方をすることが、やはり必要なのだと私は思います。

 

ではどのようにすればよいのでしょうか。

 

学級担任は「叱ることがある」ということを、子どもたちにも保護者にもしっかりと知らせる必要があるのです。

 

①命を守らなければならないということ

②多くの人たちを動かしていく必要があること

③「正しいこと」を教えていく場であること

 

これらを実行するために、時には叱ることがあるのだ、と言うことを伝えていくのです。

 

この先生はこういう時には叱る、というのが子どもたちや保護者に伝わり、その方針が理解されれば、学級はうまく回っていくはずです。

 

逆に言うと、叱らない場面では、生徒指導の基本である傾聴「しっかりと話を聞く」ことが大切です。

子供の納得感を得るような話の聞き方や指導の仕方ができているかがポイントだとも言えます。

 

よく、厳しいのに人気がある、という先生がいますが、そういった先生はこれがうまくできているはずです。

 

若い先生方もそうなれるように、自分も微力ながら手助けしたいと思っているのです。

学校での失敗経験が社会での成功に繋がる

「宿題をやらない子にはどう言ったらいいですか?」

 

という質問に対して、青山学院大学の駅伝部監督の原晋氏が、「何も言わない。失敗させればいいんです」と言ったというTV番組の紹介記事を見ました。

 

私はこの考えにどちらかと言えば賛成なのですが、コメント欄を見ると結構批判的な意見が多いようですね。

 

失敗しても気付かないとか、困るのは親であって、本人自体は困らないとか、そんな意見が散見します。

 

なかなか響かない子というのは、私も経験上一定数いるのは知っていますから、この意見もよくわかります。

 

また、親の立場からすると、できれば失敗させたくない、今の社会が変わりつつあるのはわかるけど、やっぱり良い学校に行ってもらいたい、安定した仕事について欲しい、といった思いは変わらないのでしょう。

 

 

だからこそ学校は、失敗する場であるべきだ、と思っています。

 

そこに存在価値を見出さなければ、本当に学校は必要のない場所になると思うのです。

 

 

原晋氏はこの記事の中で次のようにも述べています。

 

間違いに対しての指導が3つある。

・シンプルミス

・システムミス

・チャレンジミス

の3種類だ。これらの失敗を見極めて対応を変えることが必要だ。

 

指導の仕方として、

・横着、勉強不足、準備不足で起こり、防ぐことができる「シンプルミス」に対しては厳しく指導

・メカニズムの影響による失敗、目標設定の誤りで起こる「システムミス」に対しては仕組みや外的原因について話し合いを持つ

・「チャレンジミス」については原因を把握し褒める

 

TBS「初耳学」より

 

これらについては、私が日頃から学級経営で意識している指導の仕方と同じだなと感じました。

 

間違いにも種類があって、どんな間違いだったかを子どもたちに考えさせる時間も与えていました。

 

小学生の子供は、「シンプルミス」で指導される場合が多いのですが、「シンプルミス」については個別に指導して、「システムミス」や「チャレンジミス」については、学級全体に返して考えさせる時間を取るように意識していました。

 

「◯○のような失敗はどのようにすれば防げると思う?」

「○さんは失敗したけど、今まで自分ができなかったことに挑戦していてすごいよね」

 

すると子どもたちは自然に、

「こういうミスはしてもいいんだ。次に生かせばいいんだ」

という気持ちになっていきます。

 

失敗することで学ぶことが必ずあるはずです。

 

 

ただ、ここで大切なのは、失敗ができる安心感や自己肯定感がなければ、子どもたちはなかなか進んでチャレンジしてくれないということです。

 

学級経営で絶対におさえなければならない大切な部分です。

 

ミスを笑ったり、小馬鹿にしたりするような子を厳しく指導し、周りにも何が正しい見守り方なのかをしっかりと意識させる必要があります。

 

これがうまくいかずに、やりたい気持ちはあるんだけど、なかなか積極的にならない子が増えていく学級がたくさんありますね。

 

本人の性格や性分ももちろんありますが、周囲の環境を整えることで、積極性やチャレンジ精神を伸ばしていくことはできると私は思っています。

 

学校は社会の縮図だと以前述べたことがあります。社会生活の中でたくさん失敗できる場なのです。

 

ここで失敗したことを、大人になり本当の社会に出た時に生かせれば、学校で学んだ価値というのがあったと言えるのではないでしょうか。

頭の良さを考える:変わる社会と求められる能力

「頭がいい」とはどういうことなのでしょうか。

 

私も含めて多くの親は、我が子に「頭のいい子に育ってほしい」と願います。

 

しかし、「頭の良さ」って一体なんでしょうか。

今回はこのことについて考えてみたいと思います。

 

私は人々が求める「頭の良さ」というのはここ数年で大きく変わったと思います。

 

一昔前だと、処理能力の高さ、つまり計算が速いとか、知識が豊富ですぐに答えが出てくるとか、間違いが少ないとか、つまりテストで高得点を取れるような子が「頭のいい子」だったように思います。

 

大人社会も同様で、「みんなができることを、人よりも速く、正確に、たくさんできる」のが、仕事ができる、頭がいい、という考え方だったように思います。

 

でも、今は違ってきているのではないでしょうか。

 

社会の仕組が大きく変わったことで、求められる頭の良さというのは大きく変わりました。

 

「みんなができること」はAIが人間よりも速く処理してくれます。

 

どんなに間違いが少なくても、速く処理できても、相手は日々進化してくAIです。

はっきり言って分が悪いのです。

 

ですから今は、

「できないことはたくさんあるけれど、これなら人に負けない」

ということが大切になってくるはずです。

 

私たち親は、どうしても周りの子と比較してしまいます。

 

うちの子はあの子よりもテストの成績が良い。

あの子ができるんだからうちの子もできなきゃダメだ。

なんであの子はできるのにうちの子はできないんだろう。

 

そんな気持ちになることがあるでしょう。

 

しかし、あまり気にする必要はないのではないでしょうか。

 

これから求められる力は、そうではないのだろうな、と思うからです。

 

自分をしっかり持って、

 

自分はこうだ。

自分はこれなら負けない。

自分の強みはこれだ。

ということが必要なのです。

 

私も親として焦る瞬間があります。

 

「そんなことしてるの、あなただけだよ。ダメでしょ!」

「あの子はできてるのに、どうしてできないの」

言ってしまうことがあります。

反省です。

 

 

さて、「頭の良さ」に関する概念が変わりつつあることは、私自身、学校現場で教員として子どもたちと接する中でも、ここ数年よく言うようになりました。

 

そして、保護者面談や学級通信などでも、このような内容を話したり書いたりすることが多くなりましたね。

 

そんなに簡単に自分の強みなんて見つからないよ、と言う人も多いでしょう。

 

全くその通りだと思います。

 

そして、学校の評価システムが、まだまだ旧態依然の評価の仕方であり、個人の強みを評価できるほど、体制もできていないし余裕もないことも事実です。

 

だから学校教育はオワコンだと言う人もいますよね。

 

ただ、最近は学校現場の中でも、管理職の中にも、学校教育の未来を憂い、変革をする校長たちも出てきています。

 

誰かと比較するのではなく、過去の自分と比較をする。

経験を生かし、自分なりの判断基準で物事を考える。

 

 

そんな子が増えてくれば、これからの未来も明るいだろうなと思うのです。

一つの出来事から学びを広げる

学校にいると毎日のようにいろいろな出来事が起きます。

 

特に生徒指導上の案件などは、毎年のように似たような話が起こるものです。

 

学年も変われば子どもたちも変わりますから、それはある程度仕方のないことなのですが、同じような案件が同じクラスや学年からそれほど時期を空けずに出てくる場合には注意が必要です。

 

対応が対処療法的になっていると見ることができるからです。

 

日々起こる問題を、次に生かしていないという現実が見えてきます。

これでは担任も気の休まる暇がなく、子供との関係もますます悪くなり、さらに問題が出てくるという悪循環に陥ってしまいます。

 

そうならないためにどうすればよいのでしょうか。

 

そのためには、やはり

「一つの出来事から学びを広げる」

ことが必要なのです。

 

 

例を一つあげましょう。

 

私の地方は雪が降ります。

 

ある雪が降りしきる冷えた朝、通学路の坂道で児童が何人も転んでいたという情報が入りました。

 

職員の朝の打ち合わせで担当教員が、

「坂道は気を付けて歩くように指導してください。ロープが張っているところをつかんで、ゆっくり歩くようにと注意をお願いします」

と話しました。

 

そして朝の会で学級担任は、打ち合わせ通りに学級の子どもたちに話しました。

 

さて、どうでしょうか。

 

これは学びの広がりには繋がらないと私は考えます。

 

なぜなら、子供の中に残るのは、

「坂道の歩き方については気を付けることがわかった」

というだけになるからです。

 

この事例から考えさせたいのは、

 

・坂道で転ばないようにするにはどうすればよいか。

・他に危ないところは通学路の中に無いだろうか。

・滑って危ないという以外に危険な場所は無いだろうか。

・危ない場所ではどのようにすればよいのか。

・下の学年の子に声を掛けるとしたら?

 

などなど、ちょっと考えただけでもたくさんあるのです。

 

これまでに体験したこと、見かけたこと、聞いたことなどを掘り下げて、いろんなパターンがあり、いろいろな対処法があることを子どもたちの口から出してあげる必要があるのです。

 

時間を掛けたくないという思いはあるかもしれません。

子どもたちに話を聞いていると、核心の部分に行くまでになかなか辿り着かないことも多いからです。

 

それでも、やはり子どもたちに考えさせる必要があるのです。

 

応用できる力、活用できる力が無ければ、これからはなかなか通用しないのではないでしょうか。

計算ができる、漢字が書ける、言ったことをそのままできる、では、AIがどんどん社会に入ってくる今後は取って代わられてしまうと思うのです。

 

どんな小さなことでも、そこから学びを広げることができるか。

その視点を教員が持つことができるか。

 

それが大切だと、私は思うのです。

「思わず○○しちゃった」を減らすために

「思わず○○してしまいました」

 

子供からよく聞く言葉です。

トラブルがあった時にこの言葉をよく子どもたちは使います。

 

「思わず」ということは、そこにあまり思考がなかったことを端的に表しています。

 

発達の段階にもよりますが、中学年から高学年に上がるに従って、こういった言葉を減らしていくことが必要になると私は考えています。

 

今回はそんな話をしていきます。

 

 

「思わず○○してしまいました」というのは、子供にとって非常に都合の良い言葉です。

なぜなら、そこに理由が必要ないからですね。

 

面倒な説明をする必要もなく、反射的にやったこととして片付けてしまいたい、そんな気持ちで子供は話します。

 

ですが、これから社会に出るために大きくなっていく子どもたちにとって、いつまでもこれでいいはずがありません。

 

私の場合、こういう言い方をしてくる子にはとことん付き合うつもりで、

「『思わず』って何?ちょっと深く考えてみよう」

と言います。

どうして思わずやったのか、自分の気持ちを想像してみて、その背景には何があるのか、深掘りしていきます。

子供にとっては「面倒だな」と思うくらいに。

 

 

今の子どもたちは、発達の問題を抱えている子もそうでない子も同じ空間で過ごすことが増えています。

 

そういった環境の中で、「あいつはいいのに俺はダメなのか」という気持ちになる子もいますし、どちらかというと楽な方に行きたいという気持ちになる子も多いです。

 

だからこそ、自分の基準をしっかりと持って、正しいことを言える子、正しい行動ができる子になってほしいのです。

 

私の手法が実際に効果があるのかは自信がありませんが、

「正しいか正しくないかを人に流されず自分で判断する」

ことの大切さを説く意味で、考えさせていますね。

 

何事に対しても、反射的にではなく、一回自分で頭の中で考えて欲しいのです。

 

その際のポイントとしては、

 

・その後どんなことが予想されるか。

・自分の気持ちはどんな気持ちになるか。

・周りの人はどんな気持ちになるか。

・果たしてそれはいいことなのか、そうでないのか。

 

こういったところでしょう。

子どもたちも冷静になると、きちんと考えることができるんですよね。

 

 

さて、振り返るとしっかり判断できるとはいえ、じゃあ次からすぐできるかというと、そうはいきません。

一朝一夕にはいかないものです。

 

子どもたちの中にはどうしても反射的に手が出る子もいますし、家庭の影響で言葉の使い方が良くない子もいます。

 

だからこそ、学校という場でそういう学びをして欲しいなと思うのです。

 

私たちも「思わず」してしまうことがあるように、子供は正直なので自分の欲にかなり左右されます。

 

それはそれで可愛い部分ではありますが、大人に向けた橋渡しをしっかりとやっていくために、これからも考えさせていきたいなと思うのです。