公教育の問題や限界について最近述べることが多くなっている気がします。
私が目にする記事がそのことについて触れている内容が多いからなのか、私自身がそんな記事に目が行ってしまうからなのかはわかりませんが、今日もそんな感じになりそうです。
「多様性を認めることが、多様性を認めないことにつながってしまう」
と言う話をしたいと思います。
先日、「言葉遣いでクラス内カーストが決まる」と言う記事を目にしました。
この記事では、国語力によって学校の中で階層が分かれると言っています。
言葉を持っていない子どもたちは同じような子と集まり、粗雑なやりとりをする一方、言葉を持っている子たちは、豊富な語彙で複雑なコミュニケーションをする、といった具合です。
これ、よくわかるんですよね。
私の勤務する学校にもよく当てはまるなあと思ったのです。
加えてこの記事では、普段の学校生活の中で、国語力のある子のグループが有利というわけでもないと述べています。
むしろ、乱暴な言葉遣いをする子のグループが力を持っていたりするとも述べているんですよね。
これが今の勤務校の児童の実態にピッタリと当てはまるのです。
言葉を持たない子は、言葉を持っている子の言っていることや考えていることが理解できず、違う手段、つまり暴言や暴力で何とかしようとしてしまうのです。
それに嫌気がさしたり、無力感を感じたりした言葉を持っている子が登校を渋る、と言う場面を何度も見てきました。
残念ながら、そのような状況をうまく指導して導いていくことができる教員は一握りで、ほとんどの場合は学級崩壊に近い状態になり、他の教員や管理職が入ってその年を乗り切る、と言った場合が多いです。
学校の中にいるものとして、本来であれば穏やかに過ごせるはずの子が、他の児童の影響を受け穏やかに過ごせなくなってしまう、というのをなかなか防げない現状に、もどかしい思いを感じています。
これは
「いろいろな人と関わることが、誰のためにもなっていない」
と言う現実を表しています。
公立の学校は、多様な人間と出会う中で、今後社会で生きていく上での様々な知識や技能を学ぶことができる、と私は以前から述べてきました。
しかし、実際にお互いが多様性を認められる状況になっているかというとそうではありません。学校の中でもオンラインゲームでつながっている友達とだけ話をしたり、特定の子だけと関わっていたりする子も多いです。私の学校のような児童の実態であれば、多様性が良い結果につながっていないのです。
私の住む地域は田舎なので、そんなことはないのですが、都市部での幼少期からの私立学校への受験が過熱している状況を見ると、本当は「多様性」は求めておらず、むしろ多様性を否定している人が増えているのではないか、とも思えてしまいます。
私立の学校に行くと同質性が高い集団の中に身を置くことになります。必然的にレベルの高い考えを学んだり、お互いに切磋琢磨しながら高め合っていくことができるでしょう。
最初に挙げた「クラス内カースト…」の記事を書いた方が、ある名門校で講義をした際、そこの生徒たちに底辺校の実態を話しても全然ぴんと来ないと言うことを述べていました。クラスの4分の1が生活保護世帯で、半分近く不登校で、親とも会話がなくて…というのが理解できないのだそうです。
将来、そういった名門校の子たちが日本の未来を創っていくのだろうと思いますが、「社会を良くする」と言っても、底辺校の子たちの視点にはどうしたって立てないのではないか、という意見を述べていました。
こうした分断が進んでいる方向になっているのでは思います。
身近な話をすると、私の同僚の中には、今勤務している学区には住みたがらず、違う学区に自分の子供を通わせると断言している者が数名います。
自分の子供を同質性が高い集団の中に子供を置きたいがために、住む場所や学区を選び、中には他都道府県の私立学校に入学させる、ということを実際に公立学校の教員が行っているのです。
子供を持つ親の立場となって考えた時に、やはり正直な気持ちというのが表れるのでしょう。
多様性を認めるべき社会になるはずが、逆に多様性を否定する人たちを増やしているのではないか、と考えてしまいます。
公立の学校に勤めるものとして、やはり「いろんな奴がいたけど楽しかったな」という気持ちで卒業してほしい。そんな思いがあります。
ただ、今はいろいろな人がいることが、その場にいる子どもたちにも、教えている教員にも、負担になっているという状況です。
教員の確保、レベルアップ。
正しいこと、無駄じゃないことに時間を使える学校生活や勤務の在り方。
言ったもん勝ちで理不尽なことに対する毅然とした対応。
このようなことをしっかり進めていけば、分断を防いでいくことにつながっていくと思うのですが…