コロナ禍が落ち着き、日常の生活が数年前のように戻りつつあります。
暑くなってきて、待ちで見かける人たちもマスクを外している人が多くなっている気がするのは私だけでしょうか。
とはいえ、コロナ禍によって定着したことや新たにわかったことがある事も確かです。
何度か私のブログでも述べていますが、学校現場でもそれは同じで、リモートでの授業を始めとするICTを活用した授業や、学校行事の簡略化など、今まで当たり前に思っていたことが決して当たり前ではないということが明らかになってきました。
それはそれで変化に対応する大切なことであり、今後もこのような変化は続いていくのだろうなと思っています。
ただ、その変化を間違った方向に導いてしまうと、学校教育もますます脆弱化してしまうのではないかと私は危惧しています。
その一つが、先ほども挙げたICT活用の授業です。
ICTの活用はそれそのものは必要であるのですが、授業の活用スタイルがまだ確立していないため、
「これってICTの活用と言えるのかな?」
と思う場面に出くわすことが多いのです。
校内でも研修などで授業へのICT活用の仕方は研修しているのですが、どうしても苦手な教員もいるため、そういう教員は避けがちになります。
しかし私が危惧しているのはそういった教員ではなくて、積極的に使おうとする側の教員なのです。
たまに校内を廻って各クラスの授業を見る機会があるのですが、最近多いのが全員がタブレットと睨めっこしながら、ただ「カチカチ」という打鍵音だけが教室に響く授業に出くわすことです。
タブレットのドリルや、調べ活動など、きちんと目的があってもちろん活動させているのですが、このような授業に出会う確率が以前より格段に増えましたね。
子どもたちはタブレットに触れるのが好きです。
タブレット使うよ、といえば喜んで取り組みます。
ですからなんだか、
「タブレットさせとけば子どもたちは大人しく作業するし、させとくか」
みたいな感じになっていないかな、と私は思っているのです。
そしてもう一つ思うのが、
「これなら学校に集まる必要ないな」
ということです。
リモートで可能な授業を、教室でやることに意味があるのでしょうか。
そこで最近私が思っているのは、
「アクティブなICT活用の授業の在り方とは、どんな授業なのだろうか」
ということです。
グループの何人かがタブレットを持ち寄って、ああでもないこうでもないと議論する、会話や議論とICTが交錯するような授業が必要だと思うのです。
基本的にはこんな考えなんだと思います。
タブレットの方が早いな、便利だなと思うことはタブレットでやる。
直接話しあった方が良いことは直接話し合う。
紙に書いた方が良いことは紙に書く。
授業の中に相手の表情を見る場面、声を聞く場面、自分の声を出す場面などを意識的に作る。
調べて終わり、やって終わりではなく、それを伝えたり確認したりと、交流の中でブラッシュアップしていく時間を作っていくことが大切だと考えています。
(もちろんこの作業もICTで可能だといえば可能なのでしょうが、児童という発達段階から直接の方が良いと私は考えます)
わかっているけど難しい、というのが多くの教員の本音かもしれません。
しかし、タブレットはツールであり、それを使うことが目的ではありません。
タブレットという便利なツールを生かして、そこに学校で学ぶ意味を付加していかなければ、ますます学校というものの存在価値が揺らいでいくような気がしてならないのです。