先日、教員の常識を疑うという記事を書きました。
あれ以来、自分がそういう観点で学校を見るようになる機会が増えてきまして、常識を疑うがシリーズ化しそうです。
ということで、今回は「教員の常識を疑う」第2弾です。
教員の常識を疑う①
「不登校はだめなこと」
学校に登校する、しないはもはや自由です。
登校0日でもこの日本の小学校では落第はしません。
その選択をしたのは本人であり、家庭です。尊重していいと思います。
結局、横並びの授業スタイルだったり、行事での集団の統一感への偏重主義だったりが、不登校児童がいることで教員が困る理由になっているわけです。
我々教員も柔軟に考えていかなければなりません。
ただ、来たいのに来れない児童、特にいじめや嫌がらせなどによる特定の児童の影響で来れない児童については、逆に相手の児童を出席停止にするような形にしてもいいと思いますね。
教員の常識を疑う②
「参観日って要りますか」
参観日という行事があります。
私は個人的に無くしてしまえばいいと思っています。
いつでも見にくればいいのです。その方が普段の様子がわかるというものです。
いろんな保護者がいつ来るかわからない状態にした方が、緊張感があって良いのではないかと思います。
学級の問題も担任だけでなく保護者の視点でも炙り出されます。
今の保護者は担任に言われるより、同じクラスの保護者に言われる方が変化が生まれる気がします。どんどん拡散OK、です。
教員の常識を疑う③
「宿題」
宿題は必要でしょうか。
そもそも家庭での学習に口を出す必要はあるのでしょうか。
私も過去にいろんな保護者に出会いました。
「宿題が足りないからもっと出してくれ」「宿題は出さないでほしい。塾の勉強で忙しいから」
家で子供を見る時間がないという保護者も多いでしょう。
宿題は低位の子でもできる内容が多いので、時間の無駄だと感じる保護者もいるでしょう。
どちらの視点も分かりますが、これからは主体性の時代です。
子供も保護者も、人任せにしていてはいけないのです。
その意味で私は「宿題はいらない」派です。
教員の常識を疑う④
「行事では集団での美しさを見せる」
子どもたち本人が、意味を理解していないまま「こういうものだ」という形で教えてやらせる行事はまだまだ多いです。
運動会や学習発表会などはその代表例でしょう。
集団で揃える、をやめてしまえばいいのになと個人的には思っているのです。
運動会の入場行進をやめるだけで、練習時間も削れますからかなりの負担軽減です。
学習発表会で演劇的なものを取り入れると、子供の欠席によってかなり振り回されます。
それが担任の精神的なゆとりのなさにつながっていっては意味がないのです。
4つほど挙げてみましたが、どうでしょう。
ただ、これに保護者側に視点が加わると、子供の思い出づくりという観点が入りますから、行事は必要だとか、参観日に発表会的なものを期待するといった考えは残ります。
私も自分の子供が入学する学校が周辺の学校よりも行事が少ないと知って、多少がっかりしましたからね。
とはいえ、これからの学校は、今までこうだった、という慣習のようなものを払拭して、新たに作り上げていくべき時代に突入してきていると思っています。
今まで当たり前にあるものに疑問を抱き、変えていくべきところは変えていくということがやはりこれからは求められていくのだろうと思うのです。