小学校教員kosukedadの日記

思ったことをわりとはっきり書いていきます。毒舌かもです。

自分で考え、やるしかない

プロ野球選手のイチロー氏が、定期的に高校の野球部を訪れ、野球指導をしているのはご存知の方も多いともいます。

 

球児たちの前で自分の理論を話し、実際に実践して見せる。球児たちはそれを憧れの視線で見つめている。そんな場面をよく目にします。

 

そんなイチロー氏が、この取組みの中で述べていることについて、紹介したいと思います。

 

イチロー氏はこんなことを言っています。

 

「今の時代、指導する側が厳しくできなくなって。何年くらいなるかな。僕が初めて高校野球の指導にいったのが2020年の秋、智弁和歌山だね。このとき既に智弁の中谷監督もそんなこと言ってた。なかなか難しい、厳しくするのはと。でもめちゃくちゃ智弁は厳しいけど。これは酷なことなのよ。高校生たちに自分たちに厳しくして自分たちでうまくなれって、酷なことなんだけど、でも今そうなっちゃっているからね。(中略)

 

でも自分たちで厳しくするしかないんですよ。ある時代まではね、遊んでいても勝手に監督・コーチが厳しいから全然できないやつがあるところまでは上がってこられた。やんなきゃしょうがなくなるからね。でも、今は全然できない子は上げてもらえないから。上がってこられなくなっちゃう。それ自分でやらなきゃ。なかなかこれは大変」と様変わりした現代では、選手がより自身を律することが求められる過酷さを指摘した〉(2023年11月6日、スポニチアネックス【イチロー氏 「指導する側が厳しくできない」時代の流れ 「酷だけれど…自分たちで厳しくするしか」】より引用)

 

イチロー氏は各地の高校を訪れるたびほぼ毎回この話をしているそうです。相当の思い入れがあり、何らかの警鐘を鳴らす意味で伝えたいのかもしれません。

 

高校野球の名門校でも、同じことが言えるようです。

 

昔はとにかく鬼監督がいて、その指導の通り練習していれば甲子園に行けて…というところが多かったようですが、今の名門校はそこからシフトチェンジして、監督はプロデューサーやコーディネーター的な役割を果たしながら、選手が自主的に練習をこなせる環境を作っているところが多いようです。

 

このこと自体はとても良いことではあるのですが、こういう環境で力を発揮できるのは「しっかり考えられる子」です。

 

 

実は数年前から自分も全く同じことを思っていました。

 

私が子供の頃は、怖い親がいて先生がいて地域の人がいて…、文句を言いたいことはたくさんあったけど、何となく大人の言うことを聞いていれば立派な人になるんだろう、という思いは持っていて、まあ、言い方は悪いですが、何も考えないで過ごしてきたように思います。

 

これ自体は決して全て良いことではなくて、自立という点ではマイナス面もありますが、底辺を引き上げる効果はあったように思うのです。

 

 

その点、今は違います。

小さな子供でも「自分で決定すること」が求められるのです。

 

私は教員の立場でしたので、自分の担任している学級の子どもたちには、

「これからあなたたちが生きていく時代は本当に難しくなる。誰も導いてくれなくなるぞ。下手に導いて失敗すれば責任を問われ糾弾される、そんな時代だからね。みんな責任を背負いたくないからな。だから、結局決めるのは自分でしかない。良いも悪いも自分で決めるしかないんだよ」

なんてことを言っていました。

 

同僚の先生方とも、

「指導するのが難しくなったよねえ」

「厳しく指導すると後で文句が来ることもあってこっちが損するから、指導するときも二の足を踏むよね」

「子供に指導するならまだしも、保護者にも子供のような人が多いから、どうしようもなくて。家庭にも期待できないとなると…」

と言った話をすることが本当に多くなりました。

 

これは子どもたちに対してだけでなく、

「若い先生方を育てるのって難しい。言いたいことを言うと仕事に来なくなっちゃうかもしれないし…」

「先生方同士でも昔は中堅どころがたくさんいてバチバチ言い合って、でも飲み会で水に流して…ってやってたけど、今は飲み会も少なくなったし、参加しない人も多いし…」

というように、職員同士でも同じことが起こっているのです。

 

 

これは結局、能力差を埋めることができないままの時間が過ぎていてしまうということなのではないでしょうか。

 

考えられる子、頑張れる子はどんどん伸びていく。

でも自分では考えられない子、誰かが見ていないと頑張れない子はどんどん遅れていく。

 

そのまま大人になったら…

格差がますます広がっている社会になってしまうような気がするのです。

 

教員の役割というのは変わってきているのだという思いはあります。

自らが先導して引っ張っていくというよりは、伴走者として子供や家庭に考えさせながら一緒に走っていく、という感じでしょうか。

 

格差が少しでも少なくなるように、我々はいろいろな立場を理解しながら、「自分で考えられる子」を育てていくために奮闘するしかないのです。