春の運動会シーズンです。
私の勤務する学校でも、先日運動会が行われました。
ここ数年はコロナ禍の影響で運動会も縮小傾向となり、午前のみの開催や分散での競技・観覧となっていましたが、今年度は以前の形に戻り、午後までの開催となりました。
コロナによって行事が精選されつつあったものが元に戻っていくことが良いかどうかは、また別の機会に話すことにして、今回は運動会という行事をどのように担任は捉え、児童におろしていったら良いのかについてお話ししたいと思います。
運動会は学校の中では大変大きな行事の一つです。
ですがこの運動会は、実はとても楽しみにしている子とあまり楽しみでない子、そして全く楽しみではなく、できれば無ければ良いのにと思っている子もいる行事です。
小学校でも学年が上がるごとにこの傾向は強くなっていくでしょう。
それは運動会そのものが、得意不得意がはっきり出る行事だからです。
ですから運動会へのモチベーションが高い子と低い子が学級や学年に混在している状態なのです。
このままの状態で運動会を迎えると、一生懸命やっている子の足を引っ張るような形の子が出てきたりして、良い思い出として残らない行事になってしまう可能性も低くありません。
私は運動会を迎える際には、自分の受け持つ学級や学年に対して次のような形で取り組ませてきました。
①お家の人に自分のどんな姿を見せたいのか考えて実行すること
②自分自身がやって良かったと思う運動会にすること
③この運動会が行われるまで、どんな人がどんな思いで準備しているかを考えること
大体この3つですかね。
高学年を持つことが多いので、低学年だと少し違ったアプローチになるとは思いますが、本質として、「自分で考えて決める」ということを大切にしています。
一つ言えることは、一糸乱れぬ行進とか、学級や学年が一つになって競技に取り組むこととか、そういうことは求めなくなりました。昔は有無を言わせず「そういうもんだ!」とやらせていたこともありましたが、時代が変わりました。
そういった姿は見た目にも美しく、大変感動的だと思うのですが、子どもたち自身が果たして本当にそうしたかったのか?と思うと疑問符がつくと思うのです。
当然、中学生ぐらいになると、こう言ったものに対して「格好良い」とか「美しい」とかという意味を感じるようになり、自分たちでその姿を追い求めていくのは大いに結構なことだと思います。そこに主体性がありますからね。
ですが小学生の場合、そこまで考えることができるのはごく少数です。
一生懸命競技を頑張る。
友達の応援をする。
与えられた役割や仕事をしっかりやる。
このあたりが子どもたちのイメージできる目標になるでしょう。
担任は、その子がどんな思いで運動会に向かっているかをしっかり見取る必要があります。
運動が苦手でも一生懸命やっている子を認めることができているか。
勝ち負けに拘りつつも、潔さがある態度を見せる子をしっかりと称賛することができているか。
これらを全体に返しているか。(そのことに価値があることを全体に伝えているか)
最終的に決めるのは自分であっても、身近な大人はこんな観点で見ているんだなということを教える必要はあるのです。
運動会、久しぶりに幼児レースやPTAの競技なども行われ、笑顔あふれる行事となりました。
やはり、いいもんだなあと思いましたね。
考えてみれば、昔は学校の運動会以外に地域の町内対抗の運動会があったりもしました。
今は地域のつながりも薄くなりつつある中で、唯一学校だけがそれをできる存在なのかもしれません。
そんなことを思ったりもしました。