小学校教員kosukedadの日記

思ったことをわりとはっきり書いていきます。毒舌かもです。

経験させたい、でもリスクを取りたくない

子供には経験したことから学んでほしい、といつも思っていますが、いろいろな意味でそういうことができにくくなっているなと感じます。

 

リスクを取らないことようにすることが、学校現場の中で年々増えているからです。

 

 

先日児童に聞かれました。

 

「先生、今日は校庭で遊べますか?」

 

その日は前日の雨の影響で、校庭に水たまりができている状態でした。

 

「あなたはどう思う?」

 

「うーん、遊べると思います。水たまりを避ければ大丈夫だから」

 

この考えは間違っていません。自分は水たまりには近づかない。だから遊べる。

 

ただ、自分の視点と他人の視点を持つ、ということも大切です。

 

小学校の場合は低学年から高学年までいますから特にそうなのですが、自分は大丈夫でも、「同じことを全員がしても大丈夫か」という視点で考えることが必要だよ、と高学年を担任した時にはよく子どもたちに話していました。

 

 

自分は大丈夫、という視点も、みんなが大丈夫か、という視点もどちらも大切だと思うのですが、学校はというと、必要以上に「みんなの視点」を重要視している気がするのです。

 

1年生から6年生までの児童が同じように水たまりを避けて遊べるか。

ぬかるんだ地面で転んでしまう子は出てこないか。

怪我をするリスクはないか。

 

入ってきた玄関が泥んこになってとても汚くなることも、それを掃除しようとする子がいることも、次は入る前に土を落としてから入ろうとすることも、ぬかるんだ校庭で遊ばなければ生まれない場面です。

 

経験から学ぶ、というのはこういうことなんだろうなと思うのです。

 

 

しかし、今の学校はリスクを取ることを嫌います。

実際保護者も大変ですからね。

 

転んで服が汚れれば、「どうしてそんなグラウンドで遊ばせるんですか」というクレームが来ることもあるでしょうし、万が一怪我をしたりすればそれこそ一大事です。

 

だから、子供にそういう可能性が少しでもありそうなことは、教員が「ダメだ」と言ってやらせないのです。

 

 

これは家庭の中でも言えると思うんですよね。

 

私たちが子供の頃は、というか少なくとも私は、危険と隣り合わせで、今考えるとよく何事もなかったなと思うような経験を、遊びの中でしてきました。

 

そういうところから、これは危ない、危なくないという判断力を身に付けてきたと思うのです。

 

しかし、今の子どもたちは、危なそうなものから遠ざけることばかりし過ぎて、自分で考える判断力が育ち切らないまま大きくなっている気がします。

 

そして、自分だけになった時に、不幸な出来事にあったり巻き込まれたりしてしまうことがあるような気がしてならないのです。

 

 

私の学校ではつい先日まで、休み時間に校庭で遊べるかどうかは教員が判断して決めていました。

 

しかし、自ら考える力をつけさせたいという学校経営の方針にシフトしてきたこともあり、最近になって、委員会の児童を中心に子どもたちなりの判断基準を作り、委員会の児童が遊べるかを判断するということで動き出しています。

 

それでも子どもたちは枠の中でしか動けないなあと感じています。

 

この間、昼休み直前に判断に迷った委員会の児童が、どうすればいいですかと私に尋ねにくることがありました。

 

私は言いました。

 

「校庭、見てきた?実際に足を入れて見た?」

 

「えっ、でも今は外に出られないと思って…」

 

「今は少し時間があるから大丈夫でしょ。先生に外の様子を確認してきていいですかって断ればいいと思うよ。正しい判断をするためにあなたたちがやろうとすることは邪魔しないよ」

 

きっと、私たち教員がこんな子どもたちにしてしまったのだと思います。

集団を統率しようとするがあまり、多少自由の幅を広げてもいいはずの部分を、歯止めが効かなくなりそうな特定の児童のことを想像し、枠にはめてしまってきたのだろうなと思うのです。

 

小さなことかもしれませんが、こういう所からでも子供自身が自分で考えて判断する力を付けてくれればいいなあと思っています。