小学校教員kosukedadの日記

思ったことをわりとはっきり書いていきます。毒舌かもです。

問題の先送りにならない教員の指導力とは

今回もちょっと踏み込んだ話を。

 

 

良い先生というのは、どういう先生のことを指すのか、最近考えさせられます。

 

 

学級担任はそれぞれ頑張っているとは思いますが、実際の学校現場では、この先生に担任を任せると安心だ、という先生がどこの学校にもいるのではないでしょうか。

 

小学校においては、担任の差はかなり大きいです。したがって、ある先生は高学年で学年・学級を立て直す役目を果たしたり、また、ある先生が担任すると学級が乱れたり、児童が教室に居れなくなったりしてしまう例をよく見ます。

 

 

ずっと自分は学級の児童が担任の指導のもとでビシッとすることが、学級経営においてはとても大切で、そうさせるのが当たり前のことだと思ってきました。

 

 

基本的にこの考えは変わらないのですが、最近少しそこに違う考えが入ってきているのです。

 

学級全体が乱れることは学級担任の指導力の無さによるところも大きいでしょうから、それは置いておいて、ある児童の特性が目立つようになったり、だらしなさや態度の悪さが目立つようになったり、学力の低さが目立つようになったりすることは、悪いことなのだろうか、と。

 

 

今の学校は強い指導はできません。基本的に子供の自主性が育っていなければ、力を伸ばすことができないシステムになりつつあります。その中で、学級担任の役割にも変化が生まれているのではないかと思っているのです。

 

つまり、児童を厳しく指導して言うことを聞かせることよりも、児童の本来の姿を見せることが大事なのではないか、ということです。もちろん、最大限配慮すべきである、児童の安全と授業時間の確保をしっかりと行い、加えて主体性を育てるための支援は継続して行いつつ、です。

 

子供の特性などは、担任は気づいていることが多いのです。しかし、皮肉にも教員の指導によってそれが目立たなければ、いくら担任が「おたくのお子さんにはこのような特性があるから…」と言ってもなかなか保護者も本気にはなりません。やはり、事実が必要なのです。

 

一時的に担任の力で目立たないようにしていたものが、その担任の手を離れると再び現れることになるのでは、単なる問題の先送りなのでは無いかと思うわけです。

 

子供の1年というのは大人のそれとは違い、本当にかけがえのない1年です。その一年の差で、本当は対応できたはずのことができなくなったり、将来の進路に影響したりしてしまうことが起こり得るのは問題だと思うのです。

 

 

そういう意味で、確かな指導力を発揮しつつも、その児童本来の姿を見せられる教員こそ、最近は特に求められているのではないかと思います。そして、その姿を保護者にしっかりと伝え、今後への示唆を保護者に述べることができる教員が求められているのではないかと。

 

「○○くんはよく頑張ってますよ」というのは簡単です。学力が身につかないと、自分の指導力がない感じがするので、どうしてもオブラートに包んだような言い方をしてしまいます。自分もそうでした。

 

私たち教員は担任した児童については、1年~長くても3年位の付き合いです。つまり通り過ぎていく存在なのです。だから、保護者に都合の良いことを言っておけば、保護者の評価に影響することもないわけですし、さして自分自身の未来には影響はありません。

 

ですが保護者は違います。自分の子供は大人になるまで、いや、もしかすれば大人になってからもずっと面倒を見ていかなければならないのです。本当に必要であれば、手を打つなら早いに越したことはないのです。

 

 

そのためには、教員自身が発達障害学習障害などについてしっかりと勉強していることが必要ですし、カウンセラーなどに積極的に相談することも必要でしょう。もちろん、説得力を増すための実績も必要になるでしょう。

 

子どもたち一人一人が持っている特徴・特性は、今は持ち味として捉えられる時代です。画一的な学校教育はだんだんと消えていくのでしょうから、右に倣えの子供を育てることよりも、「この子は一体どんなことに困っているのか」「なぜそのような行動に出るのか」という視点で、子ども本来の姿を洗い出していくことが大切なのではないでしょうか。