小学校教員kosukedadの日記

思ったことをわりとはっきり書いていきます。毒舌かもです。

これからの学校行事 どこまでを目指す?

もうすぐ2月です。

 

今月から始まった3学期は短く(後期など別な呼び方をしている学校もあるかもしれませんが)、すぐに学年末を迎えます。

 

 

さて、学校にとって一番大きな行事は何かというと、それは卒業式です。やはり節目の時というのは、学校や教職員、保護者にとって、本当に大きいと思います。

 

 

そんな卒業式を例に、「行事」というものについて考えてみたいと思います。

 

 

今回私が何を言いたいかというと、行事に「様式美」や「集団美」をどこまで求めるのか、ということです。

 

 

ちなみに私自身は、「様式美」「集団美」ともに大好きです。

 

自分が受け持つ学級や学年には、とにかくきちっとした姿を求め、子どもたちも自分なりに見せたい姿をイメージして頑張っていました。

 

ですから、例えば運動会では、手や足が美しく揃った行進をさせようと体育の時間に何度も練習をしました。

 

卒業式では、微動だにしない姿勢、大きな返事、美しい歌声などを求め、子供たちと共に話し合い、厳かな式の雰囲気を作り上げてきました。

 

 

そういったきちっとした形に感動してくれる保護者もとても多いです。

 

 

ところが、今までは当たり前にやってきたことなのですが、コロナで行事が中止になったり、やり方が変わったりしていく中で、若干考えに変化が出てきました。

 

 

これからの時代、これでいいのかなという思いが生まれたのです。

 

 

理由は二つです。

 

 

一つは行事のために使う時間についてです。

 

みんなが揃った形にするためには練習が必要です。そのためには時間がかかります。

 

行事の精選や簡略化が言われる中で、授業時間を割いて練習を重ねることが、果たして必要なのかということです。

 

保護者は基本的に自分の子供を中心に見ます。自分も子を持つ親なのでわかりますが、実は我が子の姿を追いかけるのに必死で、あまり全体は見ていないという人は多いでしょう。

 

子どもたちのありのままの姿を保護者に見てもらう機会として行事を捉え、完成したものを見せる発表会的なものではなく、行事自体を学校と保護者がその子の成長のためにどうすべきか考える場としてはどうかと思うのです。

 

ですから、事前にたくさんの練習が必要な内容は極力減らしていく方向で良いのではと思っています。

 

 

 

そして二つ目は、そもそも必要以上に全体で揃える、という価値観そのものが必要なのか、ということです。あくまで必要以上に、です。

 

例えばオリンピックなどの入場。昔は日本代表も行進で入場していましたが、今はそれぞれが手を振って入場します。

 

個の時代です。自分自身がどんな気持ちで行事に臨むのか、その表現の仕方は多様であっても良いのではないかと思います。その子がどんな姿を見せたいのか、そのためのアドバイスは惜しみませんが、一律に子どもたちに求めるのはこちらの押し付けであり、やらされる活動になってしまうのではないかと思うのです。

 

結局、主体性を育てることが重要視される中で、我々教員は「行事で育てる」のではなく、「行事までに育てる」という意識をもつことが必要になってくるのかなと思っています。

 

 

 

もちろん、児童や生徒自身が、その形を自ら求めてやるのと、教員がやらせるのとでは全く意味が違います。

 

日体大の集団行動のように、自分たちがそれをやりたい、という思いがあれば話は別で、そこから美しいものが生まれると思いますし、見ている人は感動するはずです。私もその一人です。

 

 

それにしても…

高校野球が大好きで、甲子園の高校生の入場行進を見て感動する私がこんなことを言うのですから、本当に時代が変わったなあと思う、今日この頃です。