こんなに先生を目指す人が減ってしまったのはなぜなのでしょうか。
先日このようなニュースが出ていました。
東京都が、教員免許が無くても採用試験で合格した場合、教員免許を2年以内に取得すれば正式に採用しますよ、という話です。
東京都での小学校の採用試験の倍率は1.4倍だということですが、全国的にも半数以上の県で倍率が1倍台ということらしいです。
私の県もその一つとなっています。
まあ今回のニュースは、先生をやろうとする人を増やすという点で、一つの方法だろうとは思います。
社会経験を積んで教壇に立つということは意味があるとか、これをやっても志願者は増えないでしょ、また教員の質の低下につながらないかなど、賛否があることもわかりますが、何とかしたいという思いは伝わります。
今回このことについて自分の考えを述べるつもりはありません。
それより、このような対策を取らなければならないほど、教員を目指す人が減っているということに対して、私の考えを述べていきたいと思います。
なぜこんなに教員を目指す人が減ってしまったのでしょうか。
教育現場がブラックで、それを解消するために働き方改革をして負担の軽減をすれば良いとか、給料を上げれば良いとか、そんな話は当然聞こえてきそうです。
しかし、勤務時間が長いことも、給与水準も、採用試験の倍率が高かった昔からそう変わらないのです。
しかし、今ほど教員はブラックだとは言われませんでした。なぜブラックだと言われるようになったのか。これは結局、今になって現場の不満が溢れ出た形となっているからでしょう。
では、なぜ今なのでしょう。何が変わってしまったのでしょうか。
私は「教員の社会的地位が下がっているから」ではないかと思っています。
学校の教員というのは社会的な地位があり、それなりに周りから尊敬される存在だったはずですが、いつの間にかそうではなくなってきたということを感じます。現場の教員もその自覚があるでしょう。
先生、好きにやってください。
先生のこと信じてるから。
などと、昔は保護者に言われたものです。
それが教員としての自覚となり、モチベーションとなり、やりがいを感じたものです。期待に見合った人間でなくてはならないと、思ったものです。
学校の先生になれば、何となく自分が立派な人間になった気がすると言うのも、教員を目指す立派な動機づけになると思うんですよね。
今はどうでしょう。
教員よりも自分の子供の言うことだけを信じる保護者。
子供同士の喧嘩の理由や怪我の原因は、学校の管理体制にあると決め付ける保護者。
こんな保護者がたくさんいます。
しかし実情、このような保護者に対しても歩み寄るのは教員や学校サイドです。
これでは疲れてしまいますし、こういった人達のために仕事をすることに対して、モチベーションが上がるでしょうか。
今の人たちが総じて感じているのは、「人を相手にする職業は割に合わない」ということだと思います。
これは学校に限らず、医療や介護の現場もそうだとは思いますが、あらゆる要望に応えなければならず、その割には見合った報酬も、社会的な尊敬も十分に受けていないという部分があるのではないでしょうか。
もちろん、人を相手にすることでのやりがいというのはあるでしょう。
しかし、それだけに頼っていては、優秀な人材は集まりません。頭のいい人ほど、リスクが少なく稼げる仕事を選ぶのではないかと思うのです。
業務を減らして欲しいというのはもちろんです。
これまでのブログでも主張しています。
ですがそれ以上に、教員という職業に対する畏敬の念をもう一度取り戻せれば、何か風向きが変わるのではないか、という思いは常に抱いているのです。