小学校教員kosukedadの日記

思ったことをわりとはっきり書いていきます。毒舌かもです。

学校は行かなければならないところなのか

長く生きていると考えが凝り固まってしまいます。学校現場、教師集団もやはりそれは当てはまるなあと感じています。コロナ禍によって、これまで我々が持っていた価値観というのが、それほど確かではないということがわかってきたからです。今回は主観が強くなってしまいますが、自分の思っていることを書こうと思います。

 

学校は、行かなくてはならないところなのだろうか。

 

今回はこのテーマを考えていきます。

 

日本のシステムは小学校と中学校は義務教育です。法的にいうと、行かなければならないのですが、はっきり言ってずっと休んでいても進級しますから、行かなくてもよいのです。おいおい、どっちなんだよ、という感じもしますが、ここまではこれまでも知られていたことであり、わかりきった部分でもありました。

 

 

そこへコロナ禍がやってきました。全国一斉の休校、陽性者や濃厚接触者への出席停止、学級に半分しか児童が登校していない中での授業、リモート授業の推進…大きく環境が変わっていきました。

 

学校側は、それまでインフルエンザなどで多くの欠席者が出ると、学習の進度を遅くし、みんなが揃うのを待って進めるというのが一般的だったのではないかと思います。一斉に教え、一斉に進む、というスタンスです。ところが今回のコロナの場合はそんなことも言ってられず、休んでいようが関係なく進んでいくということになっていきました。

 

では家庭側から見るとどうでしょうか。学校に登校すると感染するかもしれない、子供に休まれると自分が仕事に行けない、というあたりの思いが強かったのではないでしょうか。中学生をもつ家庭は受験や部活動もあるのでまた別だとは思いますが、少なくとも小学生の家庭に関しては「行かないと勉強が遅れるから困る」という思いはあまり無かったのではないかと思います。受験を考えている児童や家庭は、塾や家庭で学習を進めるでしょうから、そもそも小学校にはそれを求めていないと思いますし。

 

 

となると、小学校は何のためにあるのかということになります。

 

私は個人的には、学校は「多様な人間、多様な考えがあることを知る場所」であると考えています。小さな社会の縮図であるという意味です。小学校はその小さな社会の中で、将来起こりうるであろう苦難を乗り越えるための訓練をする場所、と言えるのかもしれません。

 

ですので、大人が例えば上司の嫌がらせが酷くて転職をするとか、隣の住民がうるさいので引っ越しをするとかと同じように、子供に関してもどうしても避けられない困難な事象がある場合には逃避して構わないと考えています。

 

つまり、学校は行かなくても構わないということです。

 

ただ、ここで大切なことが一つあります。それは学校は社会の縮図であり、それを学ぶことができる最適な場所である、ということです。

 

勉強が得意な子、運動が得意な子、手先な器用で上手に作品を作る子、歌が上手な子、本を読むのが好きな子、整理整頓が苦手な子、ちょっと乱暴な子、何に対しても無関心な子…いろんな子がいます。そんな中に入って、自分は何が得意なのか、苦手なのか、居心地が良い相手はどんな子なのか、逆に今後付き合いたくないなと思う子はどんな子なのか、などを考えていきます。そうやって自分に対する理解を高めていく作業が、学校にはできると考えているのです。

 

学習内容を分かりやすく教えてくれるサイトや動画が簡単に見れる時代になりました。勉強をすること、学ぶことは、もはや学校に来なくてもできるようになっているのです。そんな中で、これからの公教育はどう進むべきか、それを考え続けています。

 

みなさんはどう考えるでしょうか。意見や反論があればぜひ聞きたいです。