小学校教員kosukedadの日記

思ったことをわりとはっきり書いていきます。毒舌かもです。

精神疾患で教員の休職 過去最多に

精神疾患で休職の教員が令和3年度は5897人と過去最多を記録したという報道がされていました。 

 

これまで最も多かったのは元年度の5478人だそうですが、それよりも400人以上多い数字です。

 

少し長い期間でグラフを見てみても、やはり少しずつ増えていることがわかります。

www.sankei.com

 

今回は教員の休職について、私なりの見解を述べていきたいと思います。

 

 

休職する教員には、それぞれ様々な要因が考えられると思いますが、基本的には「自信の喪失」によるものが多いのだろうと思います。

 

その「自信の喪失」がどこから来るかということで細分化されていくのではないでしょうか。

 

休職の要因を考えながら、その対策について考えていきたいと思います。

 

 

私は小学校の教員ですので、小学校に限って述べますが、おそらく精神的にきついと感じるのは、

 

①学級経営がうまくいかない

②特別に配慮が必む要な児童に振り回される

③生徒指導上問題のある児童への対応

④保護者の不満に対する対応

⑤多種多様な業務を抱え、時間のゆとりがない

 

といったあたりなのではないかと思います。

 

①~③については、児童への対応に関するものですね。結局は「指導が響かない」ことに無力感を感じてしまうのではないかということです。

 

これには両面の考え方があると思います。

 

一つは教員自体に指導力が不足しているという面です。子供の納得感を得られぬまま指導を続けてしまうことにより、言うことを聞かない児童・学級になってしまうという例を何度も見てきました。

 

もう一方では、特性のある児童が何人もいる学級を抱え、間違った指導はしていないのに、そういった子に振り回されてしまい精神的に疲弊していく先生も何人も見てきたのです。

 

学級担任というのは1人が基本ですから、うまくいかない時のストレスは1人で抱えることになります。ありきたりですが、悩みをいえる環境を作ること、チームとしてフォローできる体制を作ること、これが基本となるでしょう。

 

また、ここからはちょっと強めの私見になりますが、いじめの原因になっている児童を出席停止にしたり、指導しても改善されない児童には別の教室を用意したり、特性のある児童に受診を勧めたりといったことが学校主体でできると、教員の負担感も変わるのかなと思います。

 

結局何をするにも保護者の理解を得てやらなければならないという今の状態は、教員が時間的にも精神的にも疲弊してしまうという現実を生んでいます。

 

 

④については、厳しい指導をすると保護者から意見を言われる、逆に放置しすぎても保護者から不満が出る、など対応に苦慮している先生方は多いです。理不尽なことを言ってくる保護者もいますが、多くの場合は文句も言えず合わせていかなければなりません。

 

そして何よりきついのは、保護者の時間に合わせて連絡を取らなければならないということでしょう。保護者ファーストで対応するとそうするしかないですし、管理職もそれを望んでいます。それが結局時間外労働の温床となっている面もあります。

 

緊急の場合や重大な事案のときは別として、保護者からの連絡については、18時以降は電話を取らないとか、その時間以降はフォームで受け付けるとか、ある程度の線引きをして欲しいところです。教員と保護者とが連絡を取り合える時間はこの時間からこの時間までということを決め、学校が発信しても良いかも知れません。

 

⑤について、業務の多さについては言うまでもありませんが、能力差が大きいことも確かです。教員によってはたくさんの業務をサラッとやって帰る人もいるし、たいしたことの無い仕事を長々とやっている人もいます。

 

今盛んに教員の待遇改善で給与についても言われてますが、給与の評価につながる要素をしっかりと吟味していくことが必要でしょう。学校の先生は総合力が問われる面が大きいです。奉仕的な活動も多いです。給与評価につながるある一部分だけ頑張れば良いということにならないようにして欲しいと思います。

 

 

私は休職したことがありませんが、もう嫌だな、辞めたいな、と思った時はこんな時だったなということで、あくまで個人的な見解を述べさせていただきました。

 

最初に休職の要因は「自信の喪失」が大きいと言いましたが、教員自身も自信を持てるように、普段から研修を重ねたり、経験を積んだりすることが大事であることは言うまでも無いと思います。難しい時代ですが、自信を持って指導にあたれる教員が1人でも増えればいいなと思います。

不登校特例校って?

不登校特例校というのがあることをご存知でしょうか。

 

 

この不登校特例校というのは、学習指導要領にとらわれず、不登校生の実態に配慮した特別の教育課程を持つ学校のことを指します。正式名は「不登校児童生徒を対象とする特別の教育課程を編成して教育を実施する学校」で、文部科学大臣が指定する、というものです。

 

ちょっと調べてみると、全国に令和4年の段階で21校あるそうです(文科省のwebより)。

 

ここで行われる教育課程は不登校の児童・生徒に合わせたカリキュラムが導入されていて、

例えば

①年間総授業時数を750から770時間程度に1~2割程度抑える

②習熟度別や学年の枠を超えたクラス編成をする

③体験型学習、校外学習、ボランティア学習などに力をいれる

④教室に入るのが苦手な子に適した小グループ指導、個別指導の時間を設ける

⑤専任教員の設置やスクールカウンセラーを設置する

などというようなことが行われているそうです。

 

年々不登校の児童生徒数の割合は増加傾向にあり、そういった問題をなんとかしていこうという文部科学省の意図は見えます。実際、不登校児童を抱える学校は多く、中・大規模校で不登校児童や生徒がいない学校は珍しいのではないでしょうか。

 

今後の国や文科省の進め方として、特例校そのものを増やしていきたいということか、こういうカリキュラムを通常の学校へも導入していくのかという方向性はわかりませんが、個人的に私が思っていることを述べたいと思います。

 

 

私はこの不登校特例校という名前は好きではありませんが、今後学校が目指すべき方向性が見えてくるのではないかと思っています。

 

そのポイントを2つ挙げたいと思います。

 

①特例校のカリキュラムは人員を増やせば普通の学校でもできる

 

まず、先ほど挙げた特例校の5つの例ですが、どれも普通の学校でできるのではないかと思うのです。人さえ増やせれば、です。

 

一つの学校に配置する人員を増やせれば、ある程度先ほどのカリキュラムは導入可能だと思います。実際に教育課程そのものには組み込んでないとしても、一部に関しては「やってるよ」という学校も多いのではないでしょうか。

 

②児童・生徒が行きたい学校を選ぶということにつながる

 

不登校特例校」という名前が無くなればもっと良いと思っているのですが、それぞれの学校が独自のカリキュラムを組んで進めていくということになれば、児童・生徒が自分に合った学校を選ぶことにつながるでしょう。

 

ですから、不登校の児童を受け入れる目的の学校もあれば、超ハイレベルな学習を進めるという目的の学校もあって良いと思うのです。それを選んで通えればいいなと思います。もちろん、日本は都市部だけではありませんから、町に学校が一つしかないところもあるでしょう。ですから、地域の基盤となるこれまでのような学校も残しつつ、です。

 

以上の2つのポイントから、この方向性自体は、今後につながる考え方だと思っています。

 

 

岐阜県岐阜市に、草潤中学校という公立の不登校特例校があります。ここは2021年に開校ですからまだ新しい学校ですが、授業は全て生配信され、自宅で学ぶか学校で学ぶかは選ぶことができるそうです。登校率は85%程度だそうです。

 

不登校の生徒に配慮した、たくさんの面白い試みがこの学校では行われているのですが、ここで注目したいのは、この中学校、生徒数40名程度に対して、教職員数は27名だということです。やはり人を増やすことが大事であることを証明しているのではないでしょうか。

 

 

人を増やすことが一番お金がかかります。ですが、地方の小さな町でも、廃校などを利用して小規模校を設置し、なかなか通常の学校に適応できない児童・生徒も学校を選べるようできればいいなと思います。

 

今回は「不登校特例校」について述べました。これが「不登校」の「特例」ではなく、規模や特徴にとらわれることのない学校づくりに進んでいくことを期待しています。

対話的な学習を進めるにあたって

学習指導要領が変わり、今は対話を重視した学習が求められています。対話的な学習、と一口に言っても、どんな活動をすれば良いのでしょうか。

 

どんな活動、というよりどんな考え方をすれば良いのか、と言ったほうが良いかもしれません。

 

今回は対話を重視した授業づくりを進めるにあたって、という視点で述べていきたいと思います。

 

 

結論から言えば、「対話が勝手に生まれる授業」をする、ということです。

 

このような授業をするためには、いくつか気をつけるべき点があります。そのことについて考えていきましょう。

 

 

授業で子どもたちが対話をするのであれば、主体的に向かっていなければなりません。対話をさせることが目的になって、子どもたちの学びにつながっていない授業を見ることがありませんか。こちらから「さあ話し合うんだよ」といって始めさせる対話は果たして対話と言えるのでしょうか。

 

 

そこで、主体的に対話に向かうためのポイントを3つ挙げたいと思います。

 

1つ目のポイントは「話し合わなければ解決しない課題を用意する」ということです。

 

1人で解決できるのであれば、話し合う必要なんかないのです。だって、自分だけでできちゃうのですから。ですから、1人では解決できない課題を与えることが重要なのです。

 

ではどのような課題を与えれば良いのでしょうか。

 

例えば、

・国語…ポスターセッションの準備でよりよい発表の仕方を考える

・社会…いろんな立場の意見を聞き入れながら、これからの街づくりについて考える

・算数…いくつかの方法からどれがベストの方法なのか考える

今自分が思いつくのは、ありきたりですが、こんな感じでしょうか。

 

どんな課題を用意するかは、授業する先生が頭を捻らせて一生懸命考えるとして(すみません)、考え方として大事なのは、「正解のない(または正解が複数ある)課題を与える」ということでしょう。

 

 

2つ目のポイントは、「誰と話し合わせるか」ということです。

 

つまり話合いのグループ分けですね。これについては、変化をつけることが大切だと思います。よくやりがちなのは、能力のある子を分散させて、どのグループも一応結論が出る形にするパターンでしょうか。

 

これもこれで良いのですが、いつもそれでは同じ児童が活躍しますし、他の児童も「結局この子の考えでまとまっちゃうんだろうな」という気持ちで臨んでしまいます。

 

ですから、時には能力の高い子同士でグループを作ってみたり、教員が避けがちな仲の良い子同士のグループを作ってみたりするのです。

 

思った以上に頑張る児童も出てきますし、いつもと違う刺激に授業が楽しくなる効果もあると思います。

 

逆に力をきちんと発揮できない児童も出てくるでしょう。その時にははっきりと「○○さんはどんなグループでもしっかりできると思ってた。残念」と伝えます。

 

失敗もまた良しです。大事なのは今後にそれを生かすようにしていくことです。

 

 

3つ目、最後のポイントは、授業の雰囲気についてです。これが一番難しいかもしれません。「児童が発言しやすく、無秩序ではない雰囲気」これを作るのです。

 

発言は多いものの人の話を聞かない児童の多い学級や、先生の指示を待って先生が求める正解を探すような児童の多い学級では、対話は自然には生まれないでしょう。

 

日頃から、積極的な発言は大いに認めつつも、考えて発言すること、相手の話をよく聞くこと、反応をすることなどを、しっかり意識させるような指導をしておくことは絶対に必要です。

 

この匙加減は、学級担任の腕が問われるところです。どんなに面白い指導案でも、この「授業の雰囲気」がしっかりしていなければ対話を子どもたちが楽しむ事はないでしょう。

 

 

 

以上、3つ挙げましたが、いきなりできる学級もあれば、そうでない学級もあるでしょう。ですが、この考え方を頭に置いて日頃から授業をすると、徐々に変わっていくと思います。

 

そして、結果を評価することよりも、経過をしっかりと評価してあげること、それが次のモチベーションにつながると思うのです。

説得力をつけるには

よく、この先生だとなぜか子どもたちが素直に言うことを聞く、ということがありませんか?

 

今回はこのことについて考えていきたいと思います。

 

 

このテーマでの最大のキーワードは、やはり「説得力があるか」ではないかと思います。

 

この場合の教師の「説得力」は、さまざまな要素を指します。見た目もあるでしょう。保護者や兄弟などから伝えられた情報もあるでしょう。もちろん、話の説得力もそうです。

 

 

子供って本当に人をよく見ていますよね。見抜いている、と言ってもいいかもしれません。

 

この先生には「ここまでやっても(言っても)平気だろう」というラインを読んで行動しているなと思いませんか?

 

 

最初に挙げたような、子供がなぜか言うことを聞く先生というのは、その学校の中で既に実績を積んでいたり、見た目が恐かったり、もちろん指導力があって、話にも説得力があったりということは言うまでもありません。

 

 

では、実績もなく見た目も優しい若い先生などは、どうすれば子どもたちが素直に正しいことをしていくようになるのでしょうか。

 

 

そこで必要となるのは、やはり話の説得力でしょう。

 

子どもたちを指導する上で、若い先生方は話の説得力を身につける必要があります。ある意味、子どもたちをきちんと論破してやらなければいけないと思うのです。

 

何となくこんな感じ、で言ったことは子どもたちにも何となくでしか伝わらないのではないかと私は思います。

 

 

ではどうやって「説得力」を身につけるのでしょうか。

 

一番強いのは自分の経験でしょう。これは当たり前ですね。自分が体験した辛い思いや嬉しさ、喜びはしっかり話すと伝わります。

 

ここで大切なのは、一方的に話すのではなく、時折子どもたちに問いかけながら、自分と重ね合わせて考えられるような時間をとって話すことです。

 

そして、しっかり聞いている子の目を見て話します。

 

どんなに大切な話をしていても、聞いていない子はいるものです。気になるかもしれませんが、6割の子に伝われば良いと思ってそこは割り切って話すといいと思います。

 

聞いている子の目を見て話すと、「私に言ってくれている」という信頼感のようなものに繋がります。これを繰り返していくと、先生を信頼する児童が一人、また一人と増えていくのです。

 

 

経験などがあまり関係のない内容の話の場合はどうするのでしょう。

 

まずは自分の気持ちを伝えることでしょう。「その言い方は先生は好きじゃないな」「そんな行動をして誰が得をするの。私は誰も得をしないと思うんだけど」というようにです。

 

これも一方的に言わずに、問いかけながら話すことが大事です。

 

子どもたちは判断の規準を探しています。

 

正しいことの規準を先生がしっかりと示すことによって子どもたちは安心します。気をつけるべきことはとにかく一貫して同じ規準で話すことです。これがぶれると全く説得力がなくなります。

 

逆に言えば、ぶれなければ先生の発言はどんどん説得力を増していくのです。

 

 

若い先生方は、自分にこんなこと言えるのかなとか、自分自身がこれはどう判断したらいいんだろうと思うことも多いと思います。

 

その時は近くにいる先輩の教員に相談したり確認すれば良いのです。そして、自信を持って子どもたちの前に立って話せば良いのです。

 

先輩の先生方でも、例えば私のような適当教員は、自分のことを棚に上げて、自信満々に子どもたちに話しますからね(笑)。

 

 

話の説得力を身につけて、自信を持って指導する若い先生が1人でも増えてくれればいいなと思い、自分の職場の若手にはこんな感じでアドバイスしています。

 

学級経営がうまく回り始めれば、結果的に自分の仕事を減らすことにつながりますからね。無駄な仕事を増やさないために、しっかりと指導することが大事なのです。

わかるから楽しい?わからないから楽しい?

私のブログは生徒指導や保護者対応、それから自分の勝手な雑感などが多いのですが、たまには授業づくりについて述べなきゃなあと思います。

 

そこで今回はこれから求められる授業について考えていきたいと思います。

 

 

小学校の授業では基本的に、問題があって、その結果や答えの予想をし、どうやったらその答えが導けるかを考え、解決していくという問題解決的な学習が主として行われています。

 

今まではしっかりと理解させる、ということが第一目的として授業が進められてきました。これはこれで当たり前だと思います。

 

我々の考え方として、「子供はわかるから楽しい」という概念があるからです。理解できたことで楽しく感じるわけだから、何より理解させること、つまり、できるようになることが重要だという考え方です。

 

 

もちろんこの考え方は大事ですが、私は最近これとは逆の思いを抱くようになりました。

 

つまり、「わかるから楽しい」のではなく、「わからないから楽しい」のではないか、ということです。「わからないことを探す作業が楽しい」と言い換えることもできるかもしれません。

 

 

これまでは学校で習うようなことは、自分自身が実力をつけ、解決することが必要とされてきました。知識が多ければ多いほどいいし、わからないと思うことが少ければ少ないほど良かったわけです。

 

その中で、わからないことを確かめるには、辞書を引いたり、書籍を調べたりすることが主流でした。これには相応の時間がかかります。

 

 

ですが時代は大きく変化しています。

 

わからないことがあっても、ちょっとググればすぐにわかるようになりました。学校の宿題だってスマホにかざすだけで答えてくれたりもします。

 

労力をかけなくても簡単にやってくれるものに、時間をかけていくことの意味はどこにあるのでしょうか。

 

これから私たちは、どんな視点で学びを作っていかなければならないのでしょうか。

 

 

その一つの答えが「わからないことを楽しむ」ということだと思います。

 

実は普段の授業でも取り入れることができるし、実際にそうしている先生方も多いと思います。

 

例えば、問題があって答えがあります。解き方を3つ提示します。どの解き方が一番効率の良い方法でしょうか、などです。

 

問題の答えは最初に教えます。答えは一つです。しかし効率の良い方法がどれかは、考える視点によって変わるかもしれないのです。グループで話し合って、結論が違ってもよいのです。筋が通っていれば。そこで子供たち同士で議論になるのも面白いですよね。

 

なぜ、どうして、そうなるのか。その結論はどうやって導かれたのか。ググるだけではわからないことを、自分や友達と探していくのです。

 

 

私もつい最近、6年生と「拡大図を描くためには、最低限どこの長さがわかればよいのか」という課題で授業しました。

 

教科書では方眼に描く描き方を考えるのですが、「描き方はあとで見ればすぐわかる」と言って、「最低限どこを測るのか」だけを中心に据えて授業したのです。

 

個人で考え、隣りの子と考え、グループで考え、発表し、議論する。一生懸命話し合いましたが、この学級では、結果的に誰も一番少なく測る方法を出せませんでした。「やられたー!」「そうか」「できなかったけど楽しかった」などという声が聞こえてきました。

 

 

これからは、何かをするときに全部を知る必要はなくて、情報収集したものをもとにそこから何を生み出すか、どう繋げていくかといった能力が問われてくると思います。

 

そして、何がわからないのか、という視点を持つことで、誰もわからないことにチャレンジし、新しい考えや発見に気づくことができる人材が育つのではないかと思います。

 

子供たちに「考えてみたい!」「どういうこと?」と思わせるような授業づくりをしていきたいものですね。

学級担任はいらないのではないか②

前半では「学級担任はいらないのではないか」という考えについて、こんなメリットがあるというお話をさせていただきました。しかし、そうはいっても、これまで長く機能してきたシステムです。そこはそれなりの理由があって存続してきたわけです。

 

ということで、学級担任を置かないことで起こりうる問題点について、後半では述べていきたいと思います。考えられる範囲で、私が思う解決法も併せて述べていきます。

 

 

❶危機管理

 

学校には隙間時間がたくさんあります。朝自習、休憩時間、昼休み、給食、清掃など、こういった時間をどう管理するかは問題点の一つでしょう。私の考えは、この時間もローテーションするという考えです。

 

 

❷児童理解が進まず逆に指導しにくい

 

学級経営の上手な先生は、子供が勝手に動いていくシステムを作り上げます。児童の個性を把握し、うまくモチベーションを上げていくからです。その結果児童自身がすべきことを理解し進めていくことにつながります。今私が提唱している形だと、なかなか児童理解が進まず、指導しにくいなあと感じる先生方も多いかもしれません。

 

 

❸責任の所在がはっきりしない可能性

 

学級担任という形ではなくなると、責任の所在がはっきりしなくなることで指導が緩む可能性は捨てきれません。無責任な先生が出てきてしまうこともあり得ると思います。

 

ただ、学校は保護者に対して学校評価アンケートなどという形で評価をしてもらっています。その中で特定の教員に対してのクレームが多かったり、授業の技術が未熟だと評価される教員が出てきたりするかもしれません。それを受けて校長を始めとする管理職が指導することができるでしょう。

 

それ以外の面からでも、総合的にしっかり評価してそれを給与等に反映させることができれば、それこそどんな時も責任を持って教員は取り組むのではないかと思います。

 

 

❹問題行動への対処

 

学校内でトラブルが起こったとき、関係する教員が多数になるケースも予想されます。事態の把握は難しくなるでしょう。窓口は学校となり、教頭が主に対応する形になると思います。

 

ただ、先程❶でも述べたように、職員の誰かの目はあるわけですし、いろいろな場面に跨ったとしても、その分複数の教員が見ているのですから、学級担任1人の目より信頼性の高い情報になるのではないかというのが私の考えです。

 

 

❺計画的に学級・学年が運営できるか

 

ころころ先生が変わる中で、学習の進度は保障できるのか、学力は身につくのか、という懸念を抱くのは当然だと思います。ですが、基本この国は学習指導要領の下、どこでも同じような学びをする国のはずです。教科書もあるし、指導書もあります。1週間のシフト表や1ヶ月のシフト表さえ作ってしまえば、ある程度計画的に運営できると考えます。教務主任などがしっかりチェックする体制を整えることも大切です。

 

 

❻保護者へのお知らせ、公的な文書の作成はどうする

 

学級通信や学年通信、通信表や指導要録の作成はどうするんだ、という意見もあるでしょう。

 

お知らせは学校のクラウドにまとめ、どの学級、どの学年の保護者も確認できるようにします。

 

作成に関しては最終的に責任を持つ学年の担当者を数名決めて作成する形が良いでしょう。テンプレートにしてしまえば必要事項だけを知らせることができます。どの学年も同じ様式にしてしまえば、戸惑うこともありません。

 

通信表や指導要録も、データは共有していますから、それぞれが入力していく形をとります。もともと通信表は、学級担任の裁量というフィルターが掛かります。これを機に単純に数値だけを記載し、配付してもいいのではないかと思います。

 

 

その他にも、本当にやろうとすれば、解決すべき問題はもっとたくさん出てくるのでしょうが、考え方次第で何とかなるのではというのが私の考えです。

 

 

ここまで述べてきましたが、みなさんはどう思ったでしょうか。

 

まあ、小学校であれば、1年生から6年生までを日替わりで廻るのは現実的では無いかもしれませんが、高学年、中学年、低学年の各学級をグループでローテーションする形なら、できそうな気はしませんか。

 

ただ、理想的に進めるならもう少し条件があります。今までのように学級数プラス数名の配置では、厳しさは変わらないでしょう。教員の配置数をもっと増やして、授業が入らず分掌業務に集中できる空き曜日なんかが作れると最高ですね。

 

また、児童についての情報を全職員が共有できるツールと把握するための時間も必要かなと思います。一人一人の教員がやるというよりは、教務主任などが集約する形でまとめるのが良いでしょう。

 

 

学級担任不要論。いかがでしょう。あながち無茶苦茶な話でもないような気がしてきませんか。

学級担任はいらないのではないか①

先日、私の息子が入院したのですが、付き添いでの入院が必要なため、病院に寝泊まりする生活を送りました。

 

そのときに「あー、このシステムを学校に導入したらいいんじゃないかなあ」と思ったことを今回は書いてみたいと思います。

 

 

何を思ったかというと、「学級担任はいらないのではないかな」ということです。

これについて思ったことを書き連ねていったら、また少し長くなってしまったので、前半と後半の2回に分けてお話しします。

 

 

ではここから詳しく説明していきます。

 

教員の多忙化が言われて久しく、働き方改革の進まない現状の中で、教員たちは忙しい日常を送っています。学級担任は特に、児童の学習内容の管理だけでなく、保護者対応や児童の生徒指導などに追われる日々です。

 

担任の力量によっては、毎日のように保護者から何本も電話が入ったり、逆に児童のトラブルの報告を保護者にしたりといったことで時間外労働は長時間に渡ります。「あー、○先生今日も大変だなあ、また△さんからの電話かー」などど思うことはしょっちゅうです。

 

 

そんな折、私の息子が入院ました。そして、病院の廊下にある椅子に座っていた時に思ったのです。

入院病棟の看護師のシフト制、これを学校に持ってきたらいいんじゃないかと。

 

 

息子が入院して思ったのは、こんなにも多くの人が関わるんだな、ということです。総合病院ですから当たり前なのかもしれませんが、医師は5人位、看護師はだいたい12、3人にお世話になったと思います。

 

それぞれの医師や看護師の方にお世話になりましたが、個性はあるものの、申し送りをしっかり行っているので治療や看護は誰がきても一貫しています。(たまに薬の処方の伝達がうまくいっていないこともありましたが)ですので、24時間同じように見てもらえるのです。

 

もちろんそれぞれの方に個性がありますから、会話の中身や態度などで好き嫌いは多少ありますが、それも当たり前ですし、息子にとってはいろんな人と接してかえってよかったと思います。

 

 

それでふと、学級担任っていらないのではないか、と思ったのです。極端な話、全部の先生が全部の学級をローテーションして廻るシステムができれば、メリットは大きいのでは無いか、と。

 

学級担任制から教科担任制へ、というのは最近ある動きですし、目新しく無いかもしれません。ですがここで私が言っているのは、学校での全ての活動、朝の会から帰りの会までをローテーションしましょう、という話です。教科担任制を敷いている中学校でも学級担任はいます。そのような意味での学級担任すら無くしたらいいのでは、という考えなのです。

 

 

ではなぜ私がそう思うか、これについて述べていきます。

 

 

①責任の分散

 

簡単に言えば学級担任にのしかかる責任を軽減することができます。何人かで見ているのですから、誰か一人の責任になるということがなくなります。これは教員にとっては、かなり気持ちが楽になると思います。

 

 

②児童はいろいろな人の指導が受けられ、教員は切磋琢磨する

 

いろんな先生の授業を受けられる児童は目が肥えます。当然授業が面白い先生は人気になるでしょうし、そうでない先生も出てくるでしょう。合わない担任と我慢して1年間過ごす必要もありません。また、教員にもこれは言えることで、苦手な児童とずっと顔を合わせてストレスを抱えることも無くなります。教員同士も刺激を受けながら、自分を磨いていこうとするのではないでしょうか。

 

 

③一人の教員の力量に頼りすぎない土壌ができる

 

どの学校でもありがちなのが、前の学年で荒れ気味だった学級を、次の年度で受け持つ先生はある程度決まっているということです。これはつまり、一人の教員の力量に任せているということでもあります。そういった「特別な先生」を作らず、特定の人材に頼りすぎない学校を作ることが安定した学校経営につながっていくと思います。

 

 

④最近は教員による使用ツールの違いがあまりない

 

昔は手書きで通信を出す先生もいましたし、成績処理も手書きで行っている人なんかもいましたが、今は皆無です。最近は校務支援のシステムを導入して、誰もが同じシステムを用いて処理しているところも多いでしょう。そのため、人による使用ツールの違いがないので、データの閲覧、共用が容易にできるはずです。

 

 

⑤保護者の意識が変化する

 

1人の学級担任に任せる形ではなくなることで、保護者への対応もいろんな先生が行うことになります。自分の子供の気持ちや話していることを全面的に信じ、時には学級担任の責任を追及するような保護者もいる昨今、たくさんの先生方と関わることは、自分の子供を客観的に見る目を養う上でも良いと考えます。学校に必要以上に要求することも少なくなるでしょう。

 

 

⑥管理職の学校経営に対する意識

 

学校としてどのように子どもたちを見ていくのか、指導していくのか、という経営方針がよりはっきりすると思います。校長は一人一人の教員に対して、指導力を発揮することが必要となりますし、個々の教員の力量に左右されない学校経営が進むと考えられます。例えば、音楽発表会や学習発表会などの行事は、教員の力量がはっきり現れます。このような行事は淘汰されていく方向に進むと考えられます。

 

 

その他にも、職員が急に休んだ時とか、個別の支援が必要な児童が多いから2人配置しようとか、柔軟に対応できるメリットが多くあると思うのです。

 

もちろん、問題点もたくさんあります。

具体的な問題点とその対策については、後半で述べたいと思います。