小学校教員kosukedadの日記

思ったことをわりとはっきり書いていきます。毒舌かもです。

登校を渋る児童と「学校に行く意味」

「学校」で学ぶ意味とはどんなことなのでしょうか。

一昔前は当たり前に感じていたことに対して、我々学校で働く教員も、その意味を問いたださないといけないと感じています。

 

 

新年度が始まりましたが、私の学校では始まって早々に登校を渋る児童が出てきました。

 

登校しぶりには様々な要因がありますが、怠惰傾向のある子の場合、「学校に行っても意味がない」という理屈を出してくることが多いです。

 

家でゲームをやっている方が楽しい。

学校で勉強しなくても家でできる。謎解きのゲームなどでたくさん調べて学んでいる。

学校に行くとトラブルに遭う。家だとそのトラブルに巻き込まれなくて済む。

友達と遊ぶのも休みの日などに普通にできる。

 

そんな感じのことを言ってきたりするのです。

 

大概の場合、そういった児童の理屈にはツッコミどころが満載なのですが、まずはその背景にある部分を読み取っていく必要があります。

 

ですから、まずはじっくりと話を聞くところからスタートしなければなりません。ここで簡単に論破しても、児童本人の気持ちを本質的に変えていくことには繋がっていかないからです。

 

なぜそのような思考となったのか、児童の気持ちを認めるところから始めていきます。そうすると、日常の生活習慣や、保護者との関係、社会に対する意識、金銭感覚などが見えてくるのです。

 

その上で、ゆっくりと間違っている部分を話し、納得させていくことが必要なのです。

一番伝えなければならないことは、「あなた一人で生きているのではない」と言うことです。こういった児童の多くは、「自分は一人で解決できるから人には頼らなくてもよい」という気持ちでいます。

 

こういった児童の「視野の狭さ」をどう変えていくかということです。

 

信頼関係がしっかりと築けないうちは絶対に聞く耳は持ちませんが、ある程度の関係を築いた上で、しっかりと伝えることが大切だと思っています。

 

そのために、将来どんな人になりたいか、どんなことをして生活していきたいのか、など一般的な今後の話もしますし、「今やっているゲームは、いつまで遊ぶ予定?」「5年後もそのゲームで遊んでる?」などといった短期的にイメージしやすい話をすることもあります。

 

自分自身が今後の自分をイメージできないと、変わることは不可能だと私は思っています。小学校も高学年くらいになると、いくら親が管理しようとしても管理しきれない部分は必ず出てきます。そうなるとやはり、自分が「自分」を変えていかなければならないのです。

 

 

さて、私たち教員も同じように、「学校に行く意味はあるのか」と言う視点を常に持ち続けなければならないと思います。当たり前だからという感覚をなくしていくことは、絶対に必要です。学習内容を覚えるだけなら、学校に行かなくてもできるのですから。

 

現在の学校教育は、少ない人数(教員)で多くの子どもたちを管理するために出来上がったシステムと言って良いでしょう。それが多様性を認める社会になってきたこともあり、時代に合わなくなっていることは確かなのです。

 

はっきり言って、得るものがなければ、別に学校に来る必要など無いのです。

 

だからこそ、学校で何を得るのか。何を学んで欲しいのか。

それを私たち教員側はしっかりと持つ必要があると感じています。

 

私は以前から言っているように、学校は絶対に行かなければならないとは思いません。ですが、多様な人や考えがあることを知ることができる学校は、人との関わり方を学んでいくには最適な場所であると思います。

 

ただ学習内容を教えるのではなく、どう学ばせていくのか。

いろんな考えを出すにはどうしたら良いのか、それぞれの考えを認める雰囲気を作るにはどうすれば良いのか。

 

そう言ったことを常に考えていくことが大切なのだと、私は思っています。