小学校教員kosukedadの日記

思ったことをわりとはっきり書いていきます。毒舌かもです。

子どもを育てる 対立軸の危機管理

教師をやっていると子どもたちを良い方向に導きたい、正しいこととはどういうことかを教えたいという気持ちで取り組んでいるはずです。一方で子どもは多様化しており、保護者も多様化しています。また教師の権威というものも今は薄らぎ、言いたいことを言ってくる保護者や児童を相手にどう指導していいか悩んでいる教師も多いはずです。

 


学校の中には、さまざまなタイプの先生がいます。穏やかできめ細やかな指導をする先生、ちょっと恐めだけれど情に熱い先生など…。男性と女性でも違うでしょう。また、年齢の違いも大きいかもしれません。いろいろな教師がいる中で、それぞれが子どもたちを少しでも成長させたいと日々もがいているのです。

 


子どもたちは放っておいても勝手に育つわけではありません。賢い児童は、見たり聞いたりしたことを生かして育っていってくれますが、多くの児童は失敗したり

間違いを犯したりして、そこから考えたりあるいは指導されたりすることで育つことも多いです。まあほとんどがコチラと言っても過言ではないかもしれません。

 


ここで言いたいのは「育つ」ためには「指導」が必要な子が多い、ということです。昔のように有無をいわせず権威を振り翳して指導するような教師は皆無だと思いますが、ある程度の威厳がなければ、子どもも言う事を聞きません。「先生を舐めてかかる」というやつです。最近では若い新任の教師のクラスにこのような事例がよく起きます。

 


今の若い先生は、本当に穏やかで優しいタイプの先生が多く、子どもが好き勝手にするいわゆる学級崩壊に近い状態になるケースがあります。多くの場合は、ある特定の児童を抑えることができず、そこに付随して何人かの児童がその真似をして…というふうになるようです。

 


そのようなクラスに私がヘルプで入ると、意外に大人しくいう事を聞いたりします。「人を見て態度を変えている」のです。ここでの子どもの心理は「怒られないようにする」ということであり、「正しい事をする」という価値観ではないということがポイントです。ですから、学級担任に戻るとまた同じ事を繰り返すのです。

 


子どもへの指導をするときに、何事も「自分の判断でやっているのだ」という気持ちを持たせることが最も大切なことだと私は思います。よく子どもたちは「○○くんがやったから」「先にやられたから」という事を言います。そこで必ず私がいうのは、「でも今回の行動を決めたのは自分の判断でしょ」ということを厳しく言います。責任逃れは許さないのです。この指導を繰り返すことで、徐々に自分自身での正しい判断力が身に付いていきます。

 


ですが…この指導方法も自分の立場、という物を考えると紙一重なのです。例えば家に帰ってから、私に指導された児童が、「自分は悪くないのに怒られた。先に言ったのはあっちなのに」などと言うと、今の保護者は自分の子どもの話を100%信じますから(語弊がありますね、全員ではないです)、なぜ自分の子が指導されなければならないのだ、と言ってくることも考えられるからです。

 


私の場合はそれも想定して指導しますから大丈夫なのですが、全ての教師がそれができるかというと難しいと思います。特に若い人は。また、言葉選びも非常に難しく、使った言葉一つで揚げ足を取られ、本来話し合うべきことではない部分で保護者とトラブルになるケースも見てきました。難しい時代になったと本当に思います。

 


ぶっちゃけ、子どもの成長なんか気にせずに、淡々と自分の保身だけを考えていった方がリスクは少なくて済みます。ただ日々の授業や自分の学級で過ごす際のストレスは大きいかもしれませんが。私の場合、自分が楽をするために学級経営をしっかりしようとしていました。最初は苦労しますが、結果的には、放課後に保護者に電話する機会も減りますし、日々の授業などにおけるストレスも少なくて済みます。

 


最初は文句のようなものも来ますが、そこで負けずに、折れずに指導の方針を伝えられれば、その後は非常に楽になるはずです。

 


教師の指導が子どもたちに行き届くようにするには、ものすごい指導力のある一部の人以外は、ある程度のリスクを取って指導する場面があるはずです。指導の際はカッとなることもあるかもしれませんが、心は冷静に、厳しくも温かい指導をしたいものですね。