小学校教員kosukedadの日記

思ったことをわりとはっきり書いていきます。毒舌かもです。

これからの学校行事 どこまでを目指す?

もうすぐ2月です。

 

今月から始まった3学期は短く(後期など別な呼び方をしている学校もあるかもしれませんが)、すぐに学年末を迎えます。

 

 

さて、学校にとって一番大きな行事は何かというと、それは卒業式です。やはり節目の時というのは、学校や教職員、保護者にとって、本当に大きいと思います。

 

 

そんな卒業式を例に、「行事」というものについて考えてみたいと思います。

 

 

今回私が何を言いたいかというと、行事に「様式美」や「集団美」をどこまで求めるのか、ということです。

 

 

ちなみに私自身は、「様式美」「集団美」ともに大好きです。

 

自分が受け持つ学級や学年には、とにかくきちっとした姿を求め、子どもたちも自分なりに見せたい姿をイメージして頑張っていました。

 

ですから、例えば運動会では、手や足が美しく揃った行進をさせようと体育の時間に何度も練習をしました。

 

卒業式では、微動だにしない姿勢、大きな返事、美しい歌声などを求め、子供たちと共に話し合い、厳かな式の雰囲気を作り上げてきました。

 

 

そういったきちっとした形に感動してくれる保護者もとても多いです。

 

 

ところが、今までは当たり前にやってきたことなのですが、コロナで行事が中止になったり、やり方が変わったりしていく中で、若干考えに変化が出てきました。

 

 

これからの時代、これでいいのかなという思いが生まれたのです。

 

 

理由は二つです。

 

 

一つは行事のために使う時間についてです。

 

みんなが揃った形にするためには練習が必要です。そのためには時間がかかります。

 

行事の精選や簡略化が言われる中で、授業時間を割いて練習を重ねることが、果たして必要なのかということです。

 

保護者は基本的に自分の子供を中心に見ます。自分も子を持つ親なのでわかりますが、実は我が子の姿を追いかけるのに必死で、あまり全体は見ていないという人は多いでしょう。

 

子どもたちのありのままの姿を保護者に見てもらう機会として行事を捉え、完成したものを見せる発表会的なものではなく、行事自体を学校と保護者がその子の成長のためにどうすべきか考える場としてはどうかと思うのです。

 

ですから、事前にたくさんの練習が必要な内容は極力減らしていく方向で良いのではと思っています。

 

 

 

そして二つ目は、そもそも必要以上に全体で揃える、という価値観そのものが必要なのか、ということです。あくまで必要以上に、です。

 

例えばオリンピックなどの入場。昔は日本代表も行進で入場していましたが、今はそれぞれが手を振って入場します。

 

個の時代です。自分自身がどんな気持ちで行事に臨むのか、その表現の仕方は多様であっても良いのではないかと思います。その子がどんな姿を見せたいのか、そのためのアドバイスは惜しみませんが、一律に子どもたちに求めるのはこちらの押し付けであり、やらされる活動になってしまうのではないかと思うのです。

 

結局、主体性を育てることが重要視される中で、我々教員は「行事で育てる」のではなく、「行事までに育てる」という意識をもつことが必要になってくるのかなと思っています。

 

 

 

もちろん、児童や生徒自身が、その形を自ら求めてやるのと、教員がやらせるのとでは全く意味が違います。

 

日体大の集団行動のように、自分たちがそれをやりたい、という思いがあれば話は別で、そこから美しいものが生まれると思いますし、見ている人は感動するはずです。私もその一人です。

 

 

それにしても…

高校野球が大好きで、甲子園の高校生の入場行進を見て感動する私がこんなことを言うのですから、本当に時代が変わったなあと思う、今日この頃です。

学校行事も選択して参加するように?

学校行事も選ぶ時代になってくるのでしょうか。

 

 

私の住む地域は豪雪地帯です。冬になると、時には1メートルを超す積雪があります。

 

雪がたくさん降る街ですから、その特色を生かした行事もあります。

 

その一つがスキーです。

 

 

私の勤務する学校では、地元のスキー場でのスキー教室があります。朝から午後まで、その日はスキーを思い切り楽しむ一日となります。

 

子どもたちの成長速度は大人とは全く違います。1日でとてもうまくなるのです。ペアのリフトで交代で私の隣に座り、いろいろな会話をするのもまた楽しいものです。

 

 

そんなスキー教室ですが、私の街でもやめる学校が出てきたり、時間を短くしたりと、徐々に縮小の方向に向かっています。

 

これには、行事は精選して学習時間の確保を優先しようとか、働き方改革を進めようとか、そういった理由もあるのですが、大きな要因となるものが2つあるのです。

 

 

一つ目は、経済的な負担が大きい、ということです。

 

スキーの用具は安くはありません。子供用の安いセットでも2万円位は掛かります。加えてそこにスキーウェアや帽子、手袋、ネックウォーマーなどを準備しなければなりません。

 

そうやって揃えた道具も、子供はすぐに大きくなりますから、2シーズン使えばまた新しいものが必要になります。

 

少し前であれば、近所の知人からお下がりをもらったり、学校でいらなくなったスキーを回収して譲渡したりということもありましたが、今は人間関係の希薄さもあり、なかなかうまくいかなくなってきています。

 

さらに、児童数減もあり、スキー場までの往復のバス代も年々増えていく状態です。

 

 

もう一つの大きな要因は、安全面です。

 

スキーなどのウインタースポーツ経験者ならわかると思いますが、怪我の可能性は回避できません。何百人も引率していけば、確率は高くなります。

 

怪我のリスクを減らすため、グループの人数を少なくすることで目が届きやすいようにするのですが、そのためには保護者や外部のコーチが必要になります。

 

学校としては良かれと思ってそのようにしているのですが、保護者の中には外部コーチの指導の仕方についてクレームをつける人や、保護者コーチの所には入れないで欲しいなどの要望を出す人もいます。

 

どれだけ気をつけていても、怪我はしてしまう時がありますし、怪我をした児童の保護者としては、「スキーに行かなければ」という気持ちになることも仕方ありません。

 

もちろん、雪国ならではの特色を生かした行事なのでぜひ今後も続けて欲しいという声がたくさんあるのも事実ですが、こういった流れでスキー教室を取りやめる学校が徐々に増えていっているのです。

 

 

個人的には、私は学校が何でも抱える必要はないという考えなので、スキー教室をやめることに異論はないのですが、この考えでどんどん進んでいくと、結果的に格差を生んでいくことにはなるんだろうなとは思います。

 

経済的にも時間的にも余裕のある家庭はたくさんの経験を積み、そうでない家庭は全く経験しないで育っていく、このようなことになっていくのではないかと思うのです。

 

 

 

最近は、スキー教室の日は欠席する、といった児童も毎年数名出てきています。

 

これはスキーの話ですが、これからは学校行事も保護者や本人が選択する時代になってくるのでしょうか。

 

「うちの子は走るのが嫌いだから運動会は欠席します」

「学習発表会の日の近くにピアノのコンクールがあるのでそっちに専念させたい」

 

なんてこともこれからは出てくるかもしれません。というより、もうすでにあるのかもしれません。

 

 

個の時代になってきていますから、保護者や本人は出たくないことには無理をさせないようになってきても不思議ではないですから。

 

行事の精選については、学校が保護者の意見を無視して進めることはできませんから、こういった流れが大きくなってきて初めて加速していくのかもしれませんね。

社会で求められる力をつけるために

学校での勉強というのは、そもそもずっと昔から、学校教育というものが導入されるようになってからずっと、本来社会に出た時に役立つ知識や技能を身につける場でありました。

 

しかし、この概念はずっと存在しながらも、いつの頃からか受験や進学のための勉強となり、より良い学校に入るために勉強を頑張る、より良い会社に入社するためにより良い進学先を、といった要素が強くなって現在まで続いてきているのかなと思います。

 

ただ、昨今、我々が何となくもっていたこの社会通念が崩れつつあるのも確かだと思います。大きく変化する世の中で、良い学校に入って良い会社に就職する、という選択肢だけではないということに多くの人が気づいてきた、というのが現在の流れなのではないでしょうか。

 

 

そう考えた時に、社会に出てから求められる力を、学校でつけることがより重要になってくると思うのです。

 

 

経済産業省が提言しているものに「社会人基礎力」というものがあります。

hr-trend-lab.mynavi.jp

 

社会人基礎力とは、2006年に経済産業省により「多様な人々と仕事をしていくうえで必要な基礎的な力」として定義された概念です。

 

社会人基礎力を構成する3つの能力と12の能力要素に分けられているのですが、これを学校での学習に当てはめて応用していくと、子どもたちが社会に出てから求められる力をつけることができると思うのです。

 

具体的にはこのようなものです。


能力①:前に踏み出す力(アクション)

  必要な能力要素

  ・主体性:物事に進んで取り組む力

  ・働きかけ力:他人に働きかけ巻き込む力

  ・実行力:目的を設定し確実に行動する力

 

能力②:考え抜く力(シンキング)

  必要な能力要素

  ・課題発見力:現状を分析し目的や課題を明らかにする力

  ・創造力:新しい価値を生み出す力

  ・計画力:問題の解決に向けたプロセスを明らかにし準備する力

 

能力③:チームで働く力(チームワーク)

  必要な能力要素

  ・発信力:自分の意見を分かりやすく伝える力

  ・傾聴力:相手の意見を丁寧に聴く力

  ・柔軟性:意見の違いや立場の違いを理解する力

  ・情況把握力:自分と周囲の人々や物事との関係性を理解する力

  ・規律性:社会のルールや人との約束を守る力

  ・ストレスコントロール力:ストレスの発生源に対応する力

 

全てとても大切なことだということはわかると思います。これをこのまま当てはめても良いとは思うのですが、小学校の場合で考え、大事な要素をある程度整理すると、こんな感じになるのかなと思います。

 

 

①課題発見力

 自分で何が問題になるか考え、課題設定できる力

 

②情報収集力・情報処理力

 問題解決に必要な条件は何か、無駄なく解決するために必要な条件は何かを考える力

 

③計画的思考力

 どんな解決方法があるか多面的に考えたり、結果を見通したりしながら取り組んでいく力

 

④思考修正力

 グループの意見を参考に考えを修正したり、より効率的な方法などを考える力

 

⑤協働的解決力

 さまざまな視点からの意見を参考に、作り上げていく力

 

⑥実行・発信力

 自らの考えを実行に移したり、その考えを他の人に積極的に伝えていく力

 

 

この観点で日常の授業づくりを行っていくと、自ずと社会で通用する力を身につけることができるのではないかなと思うのです。

 

決して難しいことではなくて、普段取り組んでいる授業も当てはまるものが多いはずです。ただ、教える側に意識として、今やっている学習は「今」のためにやっているのではなくて、その先の「未来」のためにやっているんだ、という意識はもっていたいですね。

コロナ3年 不登校過去最多に

不登校に関する記事が先日出ていましたね。

news.yahoo.co.jp

 

要約すると、コロナ禍の3年で不登校の児童・生徒が激増し、2021年度は24万4990人と過去最多の人数となったということだそうです。

 

また、文部科学省厚生労働省によると、20年の小中高生の自殺者数は499人と過去最多、21年も473人と多かったということです。

 

小中学生がこのコロナ禍の中で、いろいろな影響を受けていることがわかります。

 

 

 

一概に不登校と言っても、その要因は多岐に渡ります。家庭環境、学校での人間関係、担任との関係、怠惰、学習についていけない、本人の特性など様々です。

 

これらたくさんの要因の一つにコロナ禍が入ってきたと考えるのが自然でしょう。コロナ禍によって、子供たちの生活が乱れてしまったり、学校に来る意味をあまり感じなくなったりして、増えてきたのではないかと推測されます。

 

 

先ほど不登校の要因は多岐に渡ると言いましたが、その多くの共通点は「学校に行っても楽しくない」ということだと思います。

 

 

コロナ禍で不登校が増えたのは、学校に行っても「楽しく過ごせない」というストレスを感じる子が増えたからでしょう。

 

 

学校に行っても休み時間に自由に遊べず、黙って給食を食べる。グループでの学習や全員での合唱もしない。部活動は活動停止。そういったことが楽しくないと感じてしまったのでしょう。その意味では、集団での活動を求める子供たちはまだまだ多いと言えるのではないかと思います。

 

 

一方で、学校に行く意味を感じないという子は、集団で何かをやることは必要ないんじゃないか、という価値観を持った子といえます。これは親も含めてそのような価値観を持っていることも考えられます。そもそも集まる必要はあるのか、学習はリモートでもできる、行事の煩わしさもない、これはこれでアリじゃないか、という考えですね。

 

この考え方も理解できます。

 

 

コロナ禍を通して、これからの私たちが考えなければいけないのは、思考停止状態でこうあるものだ、と思っていたものは実はそうでなかった、ということです。

 

当たり前のものや当たり前の考え方を見直すきっかけとなったのですから、これをうまく活かしていかなければなりません。

 

一人一人が求める学校像というのは違うのです。

 

そういう意味で、選択の幅を広げていくことが必要になってくると思います。以前の私のブログでも触れていますが、義務教育としての役割を果たしながらも、学校ごとの特色をもっと出して、行きたい学校を児童・生徒が選べるようになればいいのかなと思っています。

 

kosukedad.hatenablog.com

 

 

まあ、現状はなかなかそうは行きませんから、不登校の児童・生徒はたくさんいますし、不登校ではないけれど居心地の悪さを感じながら学校に登校している児童・生徒も多いでしょう。一方で、不登校の児童・生徒の対応に苦慮している先生方も多いはずです。

 

もちろん対応策は考えなければなりませんが、なんとかしなければと力みすぎる事なく、今できることをやって、頑張りすぎないでほしいな、と思っています。

児童相談所の役割を考える

今回は児童相談所について話題にしたいと思います。

児童相談所(略して児相)とは、いったい何をするところなのでしょうか。

ja.wikipedia.org

 

児童相談所は、大きく分けて3つの機能に分類できるかと思います。

①相談機能

②一時保護機能

③措置機能

 

相談機能とは、子育てに関する悩み全般の相談を受けるというものです。何らかの理由で養育が困難な場合や、発達障害・非行に関する相談、不登校など育成に関する相談などを受けます。

 

一時保護というのは、虐待などから子供を守るためや、子供を家庭から離して保護する必要のある場合などに行われるものです。

 

措置というのは児童福祉司や児童委員などが訪問して指導したり、養子やケア目的の委託などの措置を行ったりというものです。

 

私も専門ではありませんので、詳しくは述べませんが、難しい判断を迫られる施設であることはいうまでもありません。

 

 

では、なぜここで私が児童相談所の話題を挙げたのかということです。

 

それは私自身が、問題を抱えた子供、もしくはその家庭の保護者や家族を相手にするなら、対応をもう少しよく考えてよ、という経験をしたからです。

 

これは自分の地域の児童相談所での話ですから、どこの児相も一概にそうだとは言っておりませんのでそこはご理解ください。

 

 

私の勤める学校に、母親に育児を放棄され、祖父と暮らしているものの自分の管理が全くできない状態の高学年児童がいました。

 

祖父の指導は聞かず、学校でも全てに投げやりの状態で、これまでも家からお金を持ち出して豪遊したり、家出をしたり、何をしでかすかわからない状況でした。

 

その後警察沙汰になるような問題もあり、児童相談所が入ることになります。

 

一時保護するということになったのですが、児童は断固拒否。結果祖父の下で自宅で過ごしつつ、定期的に児相が様子を観察するということになりました。

 

流れ的にはこんな感じなのですが、私が問題だと感じるのは、結果ではなく、児童相談所の進め方なのです。

 

 

この案件を担当の若い女性職員が進めるのはわかります。

 

わかりますが、内容や状況によってはそれ相応の立場の方が出てくる必要だってあるわけです。

 

実際に私の学校では、児相が絡む案件になったことで、この件を学級担任から校長と教頭が預かり、いつでも対応できるようにしました。

 

児童の今後の対応について進め方を協議することになりましたが、こちらが校長、教頭で対応するのに対し、若い担当者は「それについては…ちょっと待ってください…」「今聞いてきますので…」の繰り返しだったそうです。

 

業を煮やした校長が、直接児童相談所を訪ね、上司にあたる方と話をするなど、こちらから動かないと動きがよくわからなかったのです。

 

それは当該児童と祖父に対しても同じで、説明をしっかりしないまま決定したことを進めようとして反発されたり、大事な話を電話で済まそうとして祖父の怒りを買ったりと、終始理解を得られないままでした。しかも、上司は一時保護を通達する場面でも、出てきませんでした。

 

学校側は児童の今後を不安に思い、児童と面談を重ね、祖父とも家庭訪問を繰り返しながら関係づくりを行ってきました。しかし今回の件で、児童相談所がそのような慎重な対応をしたかといえば、疑問が残ります。児相が児童や祖父の心理面や今後のことをもっと考えてくれたのなら、学校が積極的に入らなくても済んだのです。

 

今回のことでわかったのは、学校は百戦錬磨であるのに対して、児童相談所は強い権限を持つ割には、進め方がうまくないということでした。残念なのは、児童本人が「自分を変えよう」という気持ちをもてなかったということです。その気持ちをもてれば、今の現状を変えれたと思うのです。

 

児童相談所については、時折マスメディアでも「児相がもっと早く対応していればこんな事件は起きなかった」のように言われることがありますが、「家庭に入っていく」という仕事は判断が難しく、とても大変だと思います。

 

他にも業務を抱え、大変なのは理解しています。また、地方の児相などは専門職が少なかったり、人事異動が早くて引き継ぎがうまくいかなかったりと言ったことも聞きます。

 

ですが、とても大切な社会のセーフティネットであることに違いありません。

 

学校はさまざまな子供や家庭に対応するノウハウを持っています。

これは保育園なども同様でしょう。

 

そこで、学校教員や保育士などを含め、人事面で交流したり、定期的に会議等で情報交換したりできれば、お互いの理解も深まり、より協力した体制で進めることができるのにな、なんて思っているのです。

教員は本当に忙しいのか?

報道で最近よく話題になる、学校現場のブラックさについては、私も何回か述べていますが、改革が進む方向に進んできたような気がします。

 

この時期(1月)は、来年度の教育課程(来年度の行事や目標など)を各校で作り上げる時期です。児童、保護者、教職員へのアンケートなどをもとに、具体的にプランを練っていくのですが、児童数減により職員数も減ってきており、管理職も活動の精選と働き方改革に、本気になってきています。これはかなりの進展だと思います。

 

 

ということで、天の邪鬼な私は、タイトルにもありますように、

 

「教員は本当に忙しいのか?」

 

という話をしたいと思います。

 

 

なぜこのような話をするかというと、学校の先生は勤務時間についての捉え方が、他の業種とは明らかに違うと思うからです。

 

 

公立学校の教員は残業手当が出ません。

 

これは残業代を出さない代わりに、基本給の4%を教職調整額として支給するという「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」(略称 給特法)いうかなり古い法律があるからです。1972年施行ですから、今から50年以上前です。当時の残業時間(月8時間)に合わせて出た金額が給与の4%ということなのだそうです。

 

この法律が長年続いてきていて、習慣化しているのです。ですから、教員は勤務時間の管理をする、という感覚はありません。当たり前です。必要がないのですから。

 

 

これが、勤務時間前に学校に来て子どもたちに会い、子どもたちが下校してから膨大な残務整理を行うために長時間に渡り残業するという、いわゆる「タダ働き」状態を生んでいるというのが、学校がブラックだと言われる所以となっています。

 

教員の長時間労働働き方改革についてはこれまでも私見を述べていますのでご覧になってみてください。

 

kosukedad.hatenablog.com

 

kosukedad.hatenablog.com

 

kosukedad.hatenablog.com

 

kosukedad.hatenablog.com

 

教員の長時間労働は確かにその通りなのです。

 

 

確かにその通りなのですが、

 

あえて言わせていただきたいと思います。

 

本当に必要な残業、してますか?

と。

 

過去にも述べていますが、早く帰る教員の方が、児童の指導も行き届いていて、書類系の提出も早いなんてこともたくさんあるのです。

 

 

逆に、「これに慣れているから」と古いシステムを更新しようとせず、効率的に仕事ができていない先生もたくさんいます。

 

学校全体で見ても、年長者への配慮もあるからか、アップデートしないままのシステムで前年を踏襲する形のまま行われていることの何と多いことか。

 

 

今の学校現場は、ちょっと意地悪な言い方をすると、いくらでも長時間勤務していいですよ、ということになります。

 

何時に帰ってもいいということが、仕事の遅さを生んでいませんか、と問いたいのです。

 

教員自身も、少しそれを自覚しているから、これまで働き方改革が進んでこなかったという一面もあるように感じます。

 

 

結局、問題は勤務時間の管理では無く、能力の評価の仕方や業務の効率化などのシステム作りなのではないかと思うのです。

 

 

とまあ、ここまで書きましたが、実際に教員は忙しいです。遅い時間の保護者対応、校務分掌の仕事、学年での打ち合わせ、まだまだ膨大な業務を抱えています。まして相手が子供ですから、予定通りに行かないことも山ほどあります。

 

 

ですから、今の働き方改革を進める流れは喜ばしいことで、どんどん手を入れていって欲しいのです。

 

その際には、現場、つまり教員自身も工夫できるところがないか考え、変えるべき点は変えていくという姿勢をもって進んで欲しいなと思います。

 

学校という場所で学ぶ子供も働く教員も満足できる、そんな環境になることを期待しています。

問題の先送りにならない教員の指導力とは

今回もちょっと踏み込んだ話を。

 

 

良い先生というのは、どういう先生のことを指すのか、最近考えさせられます。

 

 

学級担任はそれぞれ頑張っているとは思いますが、実際の学校現場では、この先生に担任を任せると安心だ、という先生がどこの学校にもいるのではないでしょうか。

 

小学校においては、担任の差はかなり大きいです。したがって、ある先生は高学年で学年・学級を立て直す役目を果たしたり、また、ある先生が担任すると学級が乱れたり、児童が教室に居れなくなったりしてしまう例をよく見ます。

 

 

ずっと自分は学級の児童が担任の指導のもとでビシッとすることが、学級経営においてはとても大切で、そうさせるのが当たり前のことだと思ってきました。

 

 

基本的にこの考えは変わらないのですが、最近少しそこに違う考えが入ってきているのです。

 

学級全体が乱れることは学級担任の指導力の無さによるところも大きいでしょうから、それは置いておいて、ある児童の特性が目立つようになったり、だらしなさや態度の悪さが目立つようになったり、学力の低さが目立つようになったりすることは、悪いことなのだろうか、と。

 

 

今の学校は強い指導はできません。基本的に子供の自主性が育っていなければ、力を伸ばすことができないシステムになりつつあります。その中で、学級担任の役割にも変化が生まれているのではないかと思っているのです。

 

つまり、児童を厳しく指導して言うことを聞かせることよりも、児童の本来の姿を見せることが大事なのではないか、ということです。もちろん、最大限配慮すべきである、児童の安全と授業時間の確保をしっかりと行い、加えて主体性を育てるための支援は継続して行いつつ、です。

 

子供の特性などは、担任は気づいていることが多いのです。しかし、皮肉にも教員の指導によってそれが目立たなければ、いくら担任が「おたくのお子さんにはこのような特性があるから…」と言ってもなかなか保護者も本気にはなりません。やはり、事実が必要なのです。

 

一時的に担任の力で目立たないようにしていたものが、その担任の手を離れると再び現れることになるのでは、単なる問題の先送りなのでは無いかと思うわけです。

 

子供の1年というのは大人のそれとは違い、本当にかけがえのない1年です。その一年の差で、本当は対応できたはずのことができなくなったり、将来の進路に影響したりしてしまうことが起こり得るのは問題だと思うのです。

 

 

そういう意味で、確かな指導力を発揮しつつも、その児童本来の姿を見せられる教員こそ、最近は特に求められているのではないかと思います。そして、その姿を保護者にしっかりと伝え、今後への示唆を保護者に述べることができる教員が求められているのではないかと。

 

「○○くんはよく頑張ってますよ」というのは簡単です。学力が身につかないと、自分の指導力がない感じがするので、どうしてもオブラートに包んだような言い方をしてしまいます。自分もそうでした。

 

私たち教員は担任した児童については、1年~長くても3年位の付き合いです。つまり通り過ぎていく存在なのです。だから、保護者に都合の良いことを言っておけば、保護者の評価に影響することもないわけですし、さして自分自身の未来には影響はありません。

 

ですが保護者は違います。自分の子供は大人になるまで、いや、もしかすれば大人になってからもずっと面倒を見ていかなければならないのです。本当に必要であれば、手を打つなら早いに越したことはないのです。

 

 

そのためには、教員自身が発達障害学習障害などについてしっかりと勉強していることが必要ですし、カウンセラーなどに積極的に相談することも必要でしょう。もちろん、説得力を増すための実績も必要になるでしょう。

 

子どもたち一人一人が持っている特徴・特性は、今は持ち味として捉えられる時代です。画一的な学校教育はだんだんと消えていくのでしょうから、右に倣えの子供を育てることよりも、「この子は一体どんなことに困っているのか」「なぜそのような行動に出るのか」という視点で、子ども本来の姿を洗い出していくことが大切なのではないでしょうか。